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旅行の記憶と何気ない日常を

ガウディの足跡9 カサ・ミラ

Casa Mila

時期◼️1906-1910  ガウディ54-58歳

場所◼️ プロヴェンサ通り 261-265   Provença, 261-265, 08008 Barcelona

現在◼️集合住宅 住居部以外を公開

 

その昔ガウディは、ある心惹かれた女性に「いつか地中海を表現した建築を造る」ことを約束しました。その女性への想いは実りませんでしたが、その約束を実現したのがこの”カサ・ミラ”です。

ペドロ・ミラの自宅兼集合住宅としてカサ・バトリョを完成させてすぐ、ガウディはこの傑作カサ・ミラに着手しました。

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カサ・ミラには直線がありません。ガウディの好んだゲーテの自然論「生命体の曲線は合理的で美しく、自然に直線は存在しない」を現実にしています。そしてすべて曲線の外壁は波打つ地中海を表します。全ての窓はひとつとして同じ形はなく、各住戸の間取りも不規則。屋上の煙突や換気口はグエル邸やカサ・バトリョより更に大胆な形になった。

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ガウディはカサ・ミラの工事を進めるに当たって、設計図は書かずに1/10の模型を使って指示を出していました。これはカサ・ミラの構造があまりに複雑なため、職人達に指示を出す際はこの方が圧倒的に伝わりやすいとガウディが判断したためだったのだけど、このことで「ガウディは図面がかけない」という噂がバルセロナに流れたといいます。

今でこそ「傑作」と言われ世界遺産にも登録されるカサミラですが、完成当時のバルセロナ市民からの評判は、ひどいものでした。今では愛称として呼ばれる「ラ・ペドレラ(石切場)」も完成当時は強い皮肉を込めた呼び方でした。

 

 

カサ・ミラのエントランスホール。

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当時カサ・ミラは予約なしには見学できませんでした。しかも予約枠がとても少人数で今のようにインターネットで予約もできなかった。僕はバルセロナに着いたその日に見学の申し込みに行ったのだけど、週末と重なってしまい、すでに満員、中を見学することはできませんでした。グエル邸といい、カサ・バトリョといいカサ・ミラといい、バルセロナではツキがなかった。

カサ・ミラには今でも生活している人がいて、完成当時「親子3代まで家賃据え置き」という契約があり今でも100年前の入居当時の家賃のままで入居されている。

観光客が押し寄せてくるという不便はあるかもしれないけど、バルセロナの一等地、世界遺産登録された建物に、そして何よりガウディが作り上げた唯一無二の空間に住むことができるという環境で、家賃は約15万円。これは完成当時の評判の悪さで入居希望者が少なかったので値下げした結果らしいけど、現代にあってこの環境でこの家賃は、嘘のような話。羨ましい限り。

 

 

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ガウディはこのファサードの最上階に聖母マリアの像を設置するつもりだった。それによって、かつて恋いこがれた女性との約束が完成するはずでした。

しかし、歴史上「悲劇の1週間」と呼ばれる事件がそれを許さず、ガウディの想いは遂げられずに終わってしまいます。

当時、ヨーロッパ諸国の係争地であったスペイン領モロッコでおきた暴動。その鎮圧にスペイン中央政府は金持ちと聖職者を除き、若者と労働者を徴兵しました。あからさまなそのやり方に市民の怒りが爆発、各地で抗議デモが起きたのです。市民の今までの鬱憤がスペイン軍と衝突、たくさんの犠牲者が出ました。更にそれがカタルーニャ主義のアナーキスト達にも伝搬し、矛先が政治だけでなく宗教に向けられると、バルセロナ各地の教会や修道院に火が放たれるようになる。この1週間で80もの教会が破壊され、その暴動が収まるまでの間バルセロナは「死の街」のようだったといいます。

そんな事件があって、施主のミラはこの建物が教会か何かと間違われて火でも放たれたら大変と、マリア像の設置をどうしても許してくれません。でも、どうしても思いを遂げたいガウディは代わりに聖母マリアの象徴である”石のバラ”をファサードに飾ったのでした。

 

形の違う石を一つ一つ組み上げて丁寧に作られたカサ・ミラ。地中海を表現したと言われるこの建物には今までのガウディ建築の生命力に加えてある女性へのガウディの想いが込められています。

 

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