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旅行の記憶と何気ない日常を

ガウディ小話 〜サグラダファミリアへの道

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バルセロナの象徴」とバルセロナ市民から讃えられるサグラダファミリア(聖家族教会)はカタルーニャの天才建築家アントニ・ガウディによる作品。1882年の着工から130年以上経っている今も建設は続いており、少し前までは完成までにはあと数百年かかると言われていたが、近年は建築ツールと近代工法をフル活用して、どうもあと数年のうちには完成するらしい。

建築学校を卒業する時に、「天才なのかキチガイなのかわからない」と言われたガウディだったけど、この仕事ぶりを見るに「天才だった」というのが誰もが認めるところだろうと思う。

 

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さて僕がサグラダファミリアの存在を初めて知ったのは中学3年生の時、東芝のビデオデッキ"ビュースター"のCM。
どこかの海岸、サグラダファミリアがサンドアートで作られている。高中正義の「渚モデラート」が流れ、ギターのリフをバックに打ち寄せる波に徐々に崩されていく砂のサグラダファミリア。とても印象的なCMだった。その時はまだサグラダファミリアという聖堂の名前はおろかその砂のオブジェが何かも、ガウディという人の名前すらもよく知らなかった。
その後、今のようにGoogleもなく、気にはなるけど何で調べて良いのかよくわからない時間を過ごしていた。そのうち雑誌や旅行のパンフレットなどであの聖堂を見かけるようになって、名前が「サグラダファミリア、聖家族教会」であること、「アントニ・ガウディという建築家が設計した」こと、「未完成であること」を知るようになったのでした。

サグラダファミリアを知って以来、抱いた夢がありました。それはバルセロナへ行き、サグラダファミリアをこの目で見ること。バルセロナに行くことが夢というと、今では大げさに聞こえるけれど、当時1980年代は海外旅行が今ほど手軽ではなかった時代で、ガウディを知った当時はバルセロナに行くなんて一生かかっても実現できるかどうか、と思っていた。そんな当時の時代背景はというと、米ソ冷戦の最中、ベルリンには東西分断の壁が存在して、日本からヨーロッパに行くには今のようにシベリア上空は飛ぶことはできず、アラスカのアンカレッジ経由の北極周りという具合。でもその後、ソ連の崩壊で冷戦が終わり、ベルリンの壁が崩れて、ヨーロッパ統合の足音が聞こえてくる時代になったのが1990年代。日本はバブル景気に合わせて円高が進み、世界情勢的にも日本の経済状態的にも海外旅行が一気に手軽で身近な存在になったのでした。

叶わないと思った夢が叶ったのは1995年の夏。この年はベルギーに入ってから南フランスを周り、バルセロナへ行くという計画で、サグラダファミリアをこの目で見ることが最大の目的でした。

長年の夢叶う旅行だったのもあって、何度もバルセロナの夢を見た。一度は南フランスのホテルで寝ているくせに、「日本発の飛行機が飛ばない。バルセロナはおろかヨーロッパへ行けない!」という夢。がさっ!と目覚めて自分がフランスにいることを確認した時は胸をなで下ろし、夢で良かったと心底思った。今度は「乗ってる電車が途中で止まってバルセロナまでたどり着けない!」という夢。そしてもう一本、バルセロナ行きの列車に乗って車窓に流れる景色を眺めながら呑気にサグラダファミリアに思いを馳せている夢。これは前の2つと比べて幸せな夢でよかった。


夢の中ではなかなかたどり着けなかったバルセロナだったけど、実際はなんのトラブルもなく到着。そのおかげでついにバルセロナに降りたときは例えようのない安堵感を感じたのを覚えている。

到着したのはバルセロナ・サンツ駅、ここは建築家を志して故郷を後にしたガウディが、バルセロナでの第一歩をしるした場所だった。当時サンツ駅は地下の近代的な駅になっていたけど、気持ちは100年前のバルセロナ・サンツ駅そのものだった。

 

僕はバルセロナに着いてホテルを決めて、部屋に荷物を置いてすぐサグラダファミリアに向かいました。地下鉄で行けばサグラダファミアのすぐ下まで行けたのだけど、「初対面の感動」はじわりじわりと味わいたいので自分の足で歩いて行くことにしました。

バルセロナの新市街の道を進んで行くと、やがて周りの建物の上にサグラダファミリアの塔の先が現れる。その瞬間から何とも表現できない、長い間埋もれていた大切なものを見つけたような、暖かいような、懐かしいような感情が僕の中に広がったのでした。そしてちょっとだけ見えるサグラダファミリアの姿から目を離さないように更に歩を進めると、やがて新市街の建物が過ぎ去り公園の木々越しにサグラダファミリアの全体が現れた。でも、まだ出会いたかったサグラダファミアじゃない。というのもバルセロナの中心から歩いてサグラダファミリアに向かうと最初に見えるのは「受難のファサード」。これはガウディの死後、後を継いだ建築家の手によるものでガウディのオリジナルとは随分変わってしまい物議を醸したものなのです。

この時点で高ぶる気持ちをいったん落ち着かせます。そして受難のファサードから反対側へゆっくりと、ゆっくりと周るとガウディのオリジナルである、長い間あこがれ続けた「誕生のファサード」が徐々に見えてきます。その一瞬、一瞬を逃さぬように、転ばないように静かに歩みを進め、当時115年前から建設が続いている「誕生のファサード」の正面に回るにつれて僕の体は鳥肌が広がっていきました。そして「誕生のファサード」の正面に立ち、ガウディのサグラダファミリアを見上げたとき、僕の目からは涙が溢れ目からこぼれ落ちたのでした。テレビで出会ってから10年とうとうこの目でガウディのサグラダファミリアを見ることができたのです。

 

僕はゆっくりとぐるぐるサグラダファミリアを外から眺めた後、未だ石を砕く鎚音響く聖堂の内部へと向かいました。内部といっても当時は屋根はなく工事現場という感じ。ガウディオリジナルの「生誕の門」とその後作られ論争巻き起こした「受難の門」。まだ手付かずだけど「祝福の門」が完成すると十二使徒の名の付いたあのトウモロコシのような鐘楼が12本になる予定です。そのうち現在完成している8本は「誕生」と「受難」のファサードに4本ずつ。この日僕はガウディのオリジナルである「誕生のファサード」の4つの塔に登った。

塔に上る階段は螺旋を描いて上まで続き上で4つの塔を行き来することができます。誕生のファサードのちょうど真ん中当たりにブリッジがあって、そこからはバルセロナの街とまだまだ未完成の堂内、当時はまだ屋根のない教会内側を眺めることができた。生誕の門の4本の塔すべてに登り、サグラダファミリアのディテールを近くでできるだけ多く目に焼き付けて、触って肌で感じようとずいぶん長いこと塔の上で過ごしました。僕はサグラダファミリアの石に手で触るだけでは物足りず、頬ずりして過ごしました。いろんな国の人の手垢で汚れていようがかまわなかった。誰かが見ていたら気持ちわるがられただろう。

上に登ると誕生のファサードはひょろっと高く厚みが無いことが良くわかる。もし今、日本のように地震でも来たら、そのままこの聖堂もろとも崩れて埋もれて人生終わるだろうなと思いつつ、でも、ここで死ねるならそれでもいいか、とも思ったりした。

僕は当時三泊四日のバルセロナ滞在で毎日朝昼晩ここを訪れ、二度中に入り現在完成している八本の塔すべてに登り、夜は12時過ぎまでライトアップされたサグラダファミリアを眺めて過ごした。

 

これほどまでのに僕の心に響く物は何なのだろう?

最初はそのフォルムの斬新さに圧倒されて、気になって気になって仕方なくなる。実際にサグラダファミリアの前に立つと、やはり、その造形にただただひたすら圧倒される。大胆なフォルムと表面を覆い尽くす、彫刻。これがガウディという一人の頭から生まれたものなのかと、その才能の凄まじさにひれ伏すしか無くなる。でもひれ伏していると、「ほら頭を上げて、僕の作品をよく見ておくれ」とガウディが優しく招いてくれるんです。「よくきたね」と。

それに惹かれて僕は何度も足を運ぶのだ。ガウディに会いに。

 

 

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