cafe mare nostrum

旅行の記憶と何気ない日常を

ドイツ〜 ケルン

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ヨーロッパの街の多くは鉄道の駅が街外れにあります。

”街”という古くからの文化に対し”鉄道”という新しい文化が後から付け加えられた結果で、古くからの街を損なわないようにと新しい文化「鉄道の駅」は街の外におかれたのでした。

そのおかげで僕のような旅行者は駅から街の中心まで歩く間、映画でいうなら本編前の予告のような、飛行機でいうなら滑走路に向かって動き出したときのような、ワクワクする時間を楽しむことができる訳です。

しかしケルンという街はそんな楽しみを味あわせてはくれませんでした。

なぜなら、駅を出ると目の前に、このケルン大聖堂が立ちふさがるようにそびえ立っているからです。つまり映画でいうなら、いきなりクライマックスを迎えるようなものです。ただでさえインパクトのあるこの黒光りする街のシンボルである聖堂が、いきなり目の前に現れるのです。高さ157mの2つの鐘楼は”大聖堂”の名前の通りの大迫力でした。

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ここケルンには4世紀から司教座がおかれました。4世紀といえば、ローマ帝国キリスト教を公認した時期なので、キリスト教にとってはずいぶん早くからの重要都市だったことになります。

ケルン大聖堂もこの頃、4世紀から歴史があります。但し、最初からこの姿だったわけではなく、火災や破壊で何度も建て替えられ、今のこの姿になったのは1880年。157mの鐘楼は当時世界最高でした。ゴシックの聖堂としては今でも世界最大です。

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 大聖堂内部。

 下は「バイエルンの窓」と呼ばれるステンドグラス群の一つ。キリストの降架を描いた見事なステンドグラスです。

実はこの聖堂は4代目。9世紀に建てられた2代目の聖堂が13世紀に焼失してしまい、再建が始まります。ところがその後からケルンの自由を求める市民と大司教の対立が深まり大司教はボンへ移住してしまうのです。それからケルン大聖堂の建設は止まってしまい、それから建設スピードは下がり16世紀になってついに建設は中断されてしまったのでした。

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 そのあと19世紀になり大司教がケルンに戻ってくると、バイエルン王ルートヴィヒ1世の援助によって、今の高さ157mの鐘楼を二つ持つ荘厳な大聖堂がようやく完成したのは1880年のことでした。このステンドグラスはこの時のものでバイエルン王によって作られたので、「バイエルンの窓」と呼ばれます。

最終的に建設が進んだのは19世紀になるので、正確にはゴシックではなくネオゴシック様式に分類されます。ロンドンの国会議事堂(ウェストミンスター宮殿)などがこれに当たります。

ケルン大聖堂が11世期、12世期に建てられた伝統的なゴシックの聖堂に比べると、やや前衛的な印象を受けるのはこのためです。

 

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 ケルン大聖堂は4世紀の誕生から苦難の連続。近世になっても、受難は続きます。

 

20世紀。

ケルンも第2次世界大戦で大規模な空襲に遭い、街の9割が破壊されたと言います。ケルン大聖堂は奇跡的に大きな被害を免れ、失意の市民を勇気付けたと言います。

 

さらに21世紀。

近代都市からの攻撃が始まりました。周囲に高層ビル群が立ち並び始め大聖堂の空間を損なわれるようになり、1996年に登録された世界遺産から危機遺産とされることに。

そこからケルン市民の力で周囲のビルの高さ規制をもうけられ、ケルン大聖堂の景観は現在にわたって守られることとなりました。

 

1000年以上受難が続いたケルン大聖堂も21世紀になってようやく安住の時間が得られたということです。

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ケルン大聖堂ライン川にかかるホーエンツォレルン橋。

ゴシックの聖堂と鉄の橋。ケルンではお馴染みの風景です。この景色は現代のケルンの市民によって守られた。立派なことです。

 

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ヨーロッパの都市には古代ローマの植民都市が起源となっているところが多いのですが、ケルンは地名からしてその典型です。ここがローマの属州だった頃はコローニア・アグリッピネンシスと呼ばれていました。

後世になって”植民都市”を意味する”コローニア”だけが残り、さらにそれをドイツ語風に発音した”ケルン”が現在の地名となりました。

 

 

当時ローマの植民都市というと、当時の最先端の都市機能で快適な文化的な暮らしを手に入れることを意味します。舗装された道路、上下水道、公衆浴場や公衆水洗トイレといった衛生施設、円形闘技場や劇場といった娯楽施設、そのどれもがギリシア美術をベースにしたローマ様式の壮麗な建物。他のローマ都市に劣らずコローニア・アグリッピネンシスもそういう場所だったことでしょう。

 

今、ケルンにはその痕跡はほとんど残っておらず、この街がローマによって飛躍的に発展したことはほとんど感じることはできません。

でもおそらく、暗黒の中世に司教と戦って自由を勝ち取ろうとした市民たちがいたこと、高層ビルに埋もれそうになったケルン大聖堂を市民が守ったことを思うと、ここに住む人々の中に古代ローマの街の息吹が受け継がれているのかもしれない、と思いたくなります。

 

 

 

ケルン大聖堂のWebページ

www.koelner-dom.de

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