cafe mare nostrum

旅行の記憶と何気ない日常を

古代ローマ小話 コンスタンティヌス1世の凱旋門

コロッセオのすぐそばにあるのが大帝コンスタンティヌス凱旋門

315年にコンスタンティヌス帝即位10周年と312年の戦勝(内戦で西方正帝マクセンティウスを破った)を記念して、元老院ローマ市民が建ててコンスタンティヌスに寄贈たものです。

それはコロッセオから伸びる古代ローマの石畳の舗装道路の先にある。

 

現在ローマに残る凱旋門のなかでもっとも大きく立派で、何より美しい凱旋門です。後世にはナポレオンによって建てられたパリの「カルーゼルの凱旋門( ルーブル美術館のそばにある)」のモデルになった美しい凱旋門

しかし、大帝コンスタンティヌス元老院と市民から贈られたこの凱旋門を見て、首都ローマを捨てることを決意したとも言われています。それはなぜか。

一見美しいこの凱旋門、そこに飾られる美しい彫像やレリーフのほとんどが五賢帝の時代に作られたものの転用です。ハドリアヌストライアヌスマルクス・アウレリウスの時代の凱旋門から優れた彫像やレリーフが剥ぎ取られここに貼り付けられた。美しいフォルムもそもそもベースになっているのが、ハドリアヌス帝のものではないか?という話もある。

さらに言えば五賢帝時代の美しい彫刻に混じって、コンスタンティヌスの時代に製作された部分もわずかにあるのだけど、その完成度は低く、その質は残酷と思えるほど劣っていた。

この凱旋門はつぎはぎだらけのいわばハリボテ。こんな凱旋門を「大帝」の称号を与えられた皇帝に対して、当時の元老院と市民が寄贈したのです。

自分の名を冠したこのハリボテ凱旋門を見たコンスタンティヌス1世は、首都ローマの機能不全と元老院や市民の文化レベルの、どうしようもない低下を認識したに違いない。当時すでに衰えていたローマの姿と人心のレベルをそのまま表すような凱旋門は、コンスタンティヌスに遷都を決意させるに十分なものだったと想像するのです。

 

この15年後の330年、コンスタンティヌス1世は今でいうトルコのイスタンブルに自分の名前を冠した街「コンスタンティノープル(コンスタンティウム)を作り、ローマ帝国の首都としました。コンスタンティノープルは元々ビザンティウムという街があった場所で、過去から現在にわたって、さらに今でも文明の十字路と呼ばれるように東洋と西洋の交錯点で文明とビジネスの要衝、地形的にも海に守られた天然の要塞なのです。ここを首都にしようと決めたコンスタンティヌス1世の目が確かだったことは、この後コンスタンティノープルがさらに1200年も生きながらえたことが証明しています。

 

さてコンスタンティノープル遷都を記念して発行された当時の硬貨にはローマ建国のシンボル、「カピトリウムの雌狼」が彫られています。その後ローマを建国する赤子のロムルスとレムスに乳を含ませる雌狼のローマ建国の伝説が、ローマ建国から1000年経ったこの時に、コインに刻まれた。

コンスタンティノープル遷都を記念した硬貨

ユリウス・カエサルが暗殺されてローマ帝国を託された初代皇帝アウグストゥスは煉瓦の街を引き継いで、大理石の街を残しました。

コンスタンティヌス1世は荒廃した街と荒廃した首都機能、そして人々を目の当たりにして、ローマ復活のために遷都を選択しました。このコインからは、ローマ建国から約1000年、ローマを捨て新しい首都で新たなローマ帝国の始まりを祝い、再び輝かしいローマを再構築しようというコンスタンティヌス1世の並々ならない決意を感じることができるのです。

そのきっかけを作ったのが、ローマに今でも残る、コンスタンティヌス凱旋門なのでした。

 

cmn.hatenablog.com

cmn.hatenablog.com

cmn.hatenablog.com