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旅行の記憶と何気ない日常を

古代ローマ小話 奴隷の話

タイトルはとても後ろ向きですが、内容はそうでもないのでご安心ください。

「奴隷」という言葉を見ると、アフリカから強制的に拉致されて、ひどい環境で生活しながら強制的に労働させられる人々をイメージします。「奴隷」という言葉には良いイメージはありません。

実際、近代史の奴隷はそういう扱いであるし、世界史的に見ても大抵の場合「奴隷」は虐げられ一生を終える悲しい運命をたどる人々を指すことになります。

しかし古代ローマでの奴隷はイメージがずいぶん違います。「奴隷」と言う名前がついているものの、ローマ社会においては非常に重要な役割を担う人々だったといって良い。

ローマ社会での奴隷の役割。は。。。

■農業労働力:農家の貴重な労働力、大規模農園の労働力として彼らは過酷な労働を行いました。しかし一方で農家にとって大事な「貴重な戦力」としてとても大切にされたと言います。

■剣闘士:もともと観客への見せ物、エンターテイメントのためにはじまったのが剣闘試合であったこともあり、衣食住完備、剣闘士としての訓練を受け、試合に臨み観客を楽しませ、試合に勝ち続けた奴隷は、自由民になることも許された。自由民がその栄誉に憧れて剣闘士になることもあったし、奴隷の剣闘士が自由民の権利を得た後に、栄誉に浸りたいために再び剣闘士にカムバックすることもあった。それほど危うく魅力的な職業だったようです。

■知的労働力:高度な能力や技術を駆使して、教師、技師、会計士、秘書といった仕事を奴隷たちが担いました。この延長で国の行政に深くかかわる奴隷もいました。

もっともポピュラーで花形だったのは家庭教師で、貴族など裕福な家庭の子息にはギリシア人奴隷の家庭教師をつけることがステイタスでした。当時は「最高学府ロードス島で学んだギリシア人」というのが最高のブランドでかなりの高値がついたとか。カエサルのような名門貴族であるけれど、財力がない家庭はギリシアで学んだ◯◯人奴隷が重用されました。ちなみにカエサルの家庭教師は世界三大図書館の一つを抱えたアレクサンドリアで学んだガリア人。

■家族の一員:一般家庭では子供の世話係、教育係、家事全般、手紙の朗読や代筆、門番などさまざまな家庭雑用を奴隷たちがこなしていました。そして家庭内の奴隷は家族同様に扱われ、特に貴族の子息であれば同じ年頃の奴隷の子供が生活を共にして、同じように教育を受けます。これは将来国を背負う人材のために奴隷の子は生涯の友となり、ライバルとなり、理解者となってともに成長し、生涯一緒に行動していきます。こうして奴隷の子供たちは将来のローマを担う人物の忠実な従者となるために家長の子供と一緒に大切に育てられたわけです。そして両者の間には必然的に強い絆が生まれます。

カエサルにも幼い頃から一緒に過ごした奴隷がいました。B.C.44年3月15日にカエサルが暗殺された直後、首都の騒乱を恐れてだれも外出できなかった時、命をかけてカエサルの亡骸を回収したのはこの幼馴染の奴隷たちでした。

ローマの家庭における奴隷は家族同然。身分は違えど共に生活し共に成長し支え合う、そういう間柄でした。

 

「奴隷」という身分ではあるが立派な職もあり、ローマ市民の義務である税金もないことで、ローマ人でありながら奴隷の身分に鞍替えする人もいたとか。広く捉えると古代ローマ社会の「奴隷」は冒頭に示した、いわゆる僕が知っていた奴隷とは大きく違う。

でも、古代ローマの中でも上のようなケースに当てはまらない奴隷も、きっと多々あったでしょう。結局は主人の性質に左右されざるを得ないのが奴隷制度の中の奴隷であり、中にはローマ社会であっても過酷な労働を強いられ一生を終わる奴隷もいたはず。

だから今回のお話は人身売買が根底にある奴隷制度を美化するのものではないのだけど、古代ローマ社会の考え方、国家としてのローマの方針はブレることなく、身分は奴隷ではあってもその人の能力を最大限活かす仕組みが備わっていたというローマ社会の仕組みは「秀逸」です。

そして一定の条件を満たして、主人が認めれば奴隷が自由民(解放奴隷)になれるのもローマの奴隷の特徴でした。出自に関係なく、能力によって自分の未来を決めるチャンスがある、それがローマ社会であり、奴隷であっても得意なところを尊重して社会の一員に組み込むローマ人の凄さだと感じるのです。

 

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ちょっとローマ史7 三人の時代へ〜共和政期

B.C.78年スッラが死んだあと、スッラが完成させた改革はことごとく崩壊していきます。終身独裁官であったスッラは自らが考えて準備していた改革を導入させたところであっさり終身独裁官の職を降りて政界を引退してしまった。スッラが行った改革は元老院復権元老院による国家運営だった。しかしこの時すでにローマが統べる領土は地中海全域に広がっており、様々なことをスピーディーに判断・決定して対処しなければならない。逆にスッラが行ったことは元老院強化と称して元老院議員数を300から600人としたことで、何も決めることができず時間だけが過ぎ問題は解決しないという事態が続く。スッラが行った改革とはローマの現実にそぐわなかった、だからスッラの改革はことごとく崩壊していった、ということなのです。

再びローマは機能不全に陥ります。

するとまた周辺諸国が騒ついて、地中海は海賊が横行するようになり、ローマとその同盟国は戦いに明け暮れることになります。

そこに登場するのがポンペイウス(Gnaeus Pompeius Magnus B.C.106 - B.C.48)。

スッラの軍に参加して数々の軍功を挙げて、25歳の若さで凱旋将軍になり、その後も地中海の海賊一掃、オリエントの制圧とその軍事面での成功からローマにおいての人気と実力は突出していました。ローマでは彼のことを「マーニュス(Magnus=偉大な)」という最高の尊称で呼ばれることになるのです。

もう一人、クラッスス(Marcus Licinius Crassus, B.C.115 - B.C.53)という人物が台頭します。クラッススはスッラのマリウス派粛正の急先鋒として働きました。クラッススはその粛清されたマリウス派の財産を格安で買取、莫大な資産を手に入れた。その過程はとても誉められたものではないけど、この人物ものちにローマにとって重要な役割を担うことになるのです。絶大な人気を誇るポンペイウスに対して、卑屈な手で私財を増やしたクラッススは民衆からの人気はいまいち、ポンペイウスの人気に負けたくないクラッススには「軍功」は必要でした。

そんな時、「スパルタクスの乱(B.C.73 )」が起こります。イタリア南部で起きたスパルタクスを主導者とする剣闘士や奴隷たちの反乱で、その規模は10万人を超えたといいます。これに対してクラッススは私財を投じて編成した自前の軍を率いて鎮圧に向かいます。最初はスパルタクスが優勢に戦いを進めていたのだけど、数は多く剣闘士であっても訓練された軍隊に敵わず、最後はクラッススの軍に屈することになる。ところが、最後取り逃した6000人のスパルタクス軍をポンペイウスが制圧して、元老院で「反乱を終わらせたのは自分である」と報告した。これによりクラッススは反乱鎮圧の功を奪われ、「スパルタクスの乱」を鎮圧した将軍ではあったものの、凱旋式は小規模で行われることになったのでした。

このこともありローマではポンペイウスクラッススの不仲は公然の事実として扱われることになるのでした。

B.C.70 そんな犬猿の仲の二人クラッススポンペイウスが執政官に就任します。この先も20年近くこの二人がローマの政界に君臨することになるのです。

 

そして、もうひとり目立たず密かに政治の中心に食い込み始めた人物がいます。ガイウス・ユリウス・カエサルです。このときはまだ30代前半。実はこのころ、カエサルポンペイウス接触します。はっきりした記録はないものの、その後の状況からして間違いないと言われています。

ポンペイウスの絶大な人気と実績に元老院は「独裁」を警戒し始める。そんな元老院が当時最大の問題だった地中海の海賊一掃、オリエント制圧をポンペイウスに任せることを渋ると、それを制してポンペイウスの派遣に賛成したのがカエサルでした。

ポンペイウスは期待通りに海賊を一掃し、オリエントを平定して凱旋します。

 

人気と実力のポンペイウス、資金力のクラッスス、そこに少しずつユリウス・カエサルが関わりはじめ、世の中に気づかれないまま、時代は実質この三人が舵取りをするようになっていきます。

三頭政治。ローマは三人の時代へと向うのでした。

 

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ローマ小話 紀元前100年

マリウスとスッラが台頭したこの時期、紀元前100年7月13日に、ローマの未来、そして現代に、特にヨーロッパ世界の運命に大きく関わる人物が誕生します。

ガイウス・ユリウス・カエサル(Gaius Iulius Caesar B.C. 100 - B.C.44)

カエサルは、たどればローマ建国の伝説、トロイアのアエネイアスに続く名門ユリウス一門の家系ながら、ローマでも貧しい地域であるスブッラ地区に生まれます。父は会計検査官(プラエトル)を努めた後、属州総督まで務めた人物。母は名門アウレリウス・コッタ家出身。叔母の夫は軍政改革を行ったガイウス・マリウス。叔父にあたるのは同盟者戦役を終わらせた「ユリウス市民権法」を制定した執政官を務めたルキウス・ユリウス・カエサル

裕福ではなくとも聡明な母アウレリアから愛情を注がれ、教育もしっかり受けてカエサルは成長した。当時ローマの裕福な家庭では子息の教育にギリシア人の家庭教師をつけることがステイタスでした。カエサルの家は貧しかったためにギリシア人ではなく、アレクサンドリアで学んだガリア人の家庭教師によって十分な教育を受けたと言います。

幼い頃、叔父のマリウスが軍功を挙げ出世していくのを見て高揚したでしょう。その後多感な思春期には内乱と粛清によるたくさんの同胞の死体がローマの街に転がる様を見て、スッラが殺した親戚の首がフォロ・ロマーノに晒される様を見て過ごした。カエサルはその様子を見て同胞同士の殺し合いである内乱の愚かしさを目の当たりにしました。

そしてスッラが作ったマリウス派の粛清名簿にはこの時18歳のカエサルの名前もありました。母アウレリアの機転によって、スッラの命令に反くユリウス家唯一の跡取りの粛清を免除してやって欲しいと、スッラ派内部からも声が上がる。スッラは渋々それを受け入れるのですが、その時スッラはこう言い残したといいます。「この若者はいつか我々貴族を滅ぼすだろう。この者の目の奥には何百人ものマリウスが宿っているのがわからないのか」と。

こうしてカエサルは粛清を逃れます。思春期にこんな体験をしてもなお、カエサルは歪んだ恨みつらみを募らせることなく、思考や行動は復讐とは無縁、カエサルは純粋にローマのために行動するのです。そしてカエサルはどんな深刻な場面であっても機嫌を損ねることがなかったと言います。これらカエサルの思考、性格の形成は聡明な母アウレリア影響が非常に大きかった。

イタリアの高校の歴史の教科書に載っている一節

「指導者に求められる資質は、次の5つである。
知性・説得力・肉体上の耐久力・自己制御の能力・持続する意思。
カエサルだけが、このすべてを持っていた。」

そう、カエサルだけが、その全てを持っていた。これらは母アウレリアによってカエサルに備えられ、カエサル自身がそれを大きく育てていった。

そしてもう一つ、大きな事を成すには能力と同じかそれ以上に「運」が必要です。カエサルはそれも持ち合わせていた。それも「強い運」を味方にしていました。これはきっと時代そのものがカエサルを欲していたと言うことなのだろうと思います。

紀元前100年とは静かながら、世界史上とても重要な年でした。でもそれが世の中に認知されるのはそれから40年ほど経った後になるのです。

 

もしガイウス・ユリウス・カエサルがこの時期のローマに現れなかったら、いまの世界は全く異なるものになっていたかもしれません。僕もこんなホームページやブログを作ることもなかったかもしれません。。。。

 

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ちょっとローマ史6 粛清〜共和期

グラックス兄弟の改革と不条理な死を経て、ローマは完全に元老院派と一般市民との間に強烈な溝が生まれ、同じローマ市民の間に大きな対立構造が出来上がってしまいます。深刻な問題となっていた農民たちの失業はローマ軍団の弱体化に直結し、それを敏感に感じ取った周辺国がローマに戦いを仕掛け、ローマはことごとく破れるという事態が続いていきます。これを打開しようとした二人の人物は結局お互いへの粛清という形で終わり、ローマは身内同士の殺し合いが横行する凄惨な社会に陥ってしまうのです。その中心人物となるのは軍事の秀才だが政治に疎いマリウスと真面目すぎるスッラ。

 

ガイウス・マリウス(Gaius Marius  B.C.157 - B.C.86)

名前の通り、家門名をもたない平民出身で叩き上げの軍人であったマリウスは、ヌミディアとのユグルタ戦役(B.C.116 - B.C.106)で功績を上げて出世していきます。

B.C.107 マリウスは執政官になると、大胆な軍政改革を行いローマ軍団を再生します。ローマ建国以来ローマ市民の義務(直接税)であった兵役を、志願制に変え、軍人を職業とします。軍人としての給与支給や武器装備も元老院が支給、さらに退役後の処遇を整備するなど軍人として身分が保障され、職業として認知、定着するようにしたのでした。この改革は功を奏してローマ軍団は見事に立ち直り、ローマの失業問題も解消されるのです。さらにこの改革は軍団構成や軍旗(銀鷲旗)の制定などその後帝世期まで続くローマ軍団の基本形となりました。

マリウスは軍政改革によってローマの失業問題と軍の弱体化という二つの問題を同時に解決。これは優れた改革と思われましたが、「職業としての軍人」という改革は当時、戦争のない平時にはその軍人が失業状態になるという皮肉な状況を生み出してしまった。また共和政ローマの中では見事な改革だが、その同盟国にとっては不満を増長することになり、政治に疎いマリウスならではの不備が元でいろいろな混乱が起き、マリウスの足元をすくう事態へと発展していくのです。

マリウスは軍人であって政治家ではありませんでした。

 

同盟者戦役(B.C.91 - B.C.89)とユリウス市民権法

マリウスの軍制改革はローマ市民にとっては、素晴らしい改革だったものの、その周辺の同盟諸国からすると、自分達はまたしても置いてけぼり、それまでに溜まっていたローマ本国への不満が爆発し、同盟者戦役というローマと同盟国との間で、いわば仲間割れの争いを引き起こします。お互いの手の内を知り尽くした完全な身内同士の戦いが泥沼化します。それを打開したのは一つの法律でした。

同盟国市民もローマ市民権を自由に取得できるようにするとした「ユリウス市民権法」が制定されることで同盟者戦役は和解します。この戦役を収束させるために成立した「ユリウス市民権法」ですが、ローマにとってはB.C.367に制定されたリキニウス法に匹敵する、画期的でかつ、その後の国家ローマの性格を決定づける重要な法律でした。

 

ルキウス・コルネリウス・スッラ(Lucius Cornelius Sulla Felix B.C.138 - B.C.78)

マリウスより20歳ほど年下で、元々マリウスの部下としてユグルタ戦役を戦った人物。名門コルネリウス一門に属する家柄でありながら、とても貧しい生活を強いられていたといいます。同盟者戦役で功績を上げ、B.C.88に執政官に当選します。スッラは政治家としても軍人としても優れた人物であったと言います。スッラはローマの混乱を元老院の機能不全が原因と考え、元老院を強化して以前のような従来の共和政を復活させるという強い信念を持っていました。

スッラが執政官になると同時にこのスッラとマリウスの対立は激化し、市民を巻き込んだ凄惨な方向へと進んでしまうのです。

 

粛清合戦

マリウスのローマ占拠

スッラの執政官就任を機に、ローマの街を舞台にマリウス派とスッラ派が激突。その時、数で優位だったローマ市民中心のマリウス派が優勢となり、スッラ派は首都を逃れます。スッラは軍を整えて再びローマにもどり、マリウスを追い出して首都を制圧し、スッラはマリウスとその一派を「国賊」に認定した。この頃、ポントス王ミトリダテスのギリシアを巻き込んだ不穏な情勢から、スッラは東方制圧に乗り出す。

すると今度はマリウスが、スッラの留守に自軍を率いてローマを制圧、「国賊」にされた70歳のマリウスは、怨念の赴くままに僅か5日の間に元老院議員50名、騎士階級1000人を粛正しました。これらの人々を奴隷を使って殺害し、ことが済むとその奴隷たちも殺された。ローマの街には死体が溢れました。マリウスは明けてB.C.86年に執政官に選出されますが、怨念を晴らした老将はその年に亡くなったのでした。

スッラの逆襲

B.C.82年ポントス王ミトリダテスとの東方戦役に勝利してイタリア半島に戻ったスッラは各地でマリウス派を撃破してローマに迫る。首都ローマでも徹底的にマリウス派の、というかスッラを支持しなかったものたちを徹底的に殺戮しました。マリウスの墓は暴かれ、マリウスの数々の戦勝記念碑は破壊され、マリウスの血を引くものは虐殺されました。いわゆる民衆派に属するものは名簿に記し、その数は元老院議員80名、騎士階級1600名が記載されたといいます。更に懸賞金付き密告制度を使ってまで隈なくマリウス派を探し出し、裁判もなく財産没収され殺されたと言います。

 

スッラの勝利と混乱の収集

スッラは一通りの殺戮を終えた後、終身独裁官に就任します。

スッラは数々の改革法案を提出し様々な問題の解決に当たったのでした。それは祖国ローマを正したい、という純粋な思いによるもの。そして一通りの改革の道筋をつけたB.C.80年スッラは自ら独裁官を解任する。スッラにはローマを正しく導くのは元老院体制だという強い信念があった。マリウスとの抗争で混乱したローマにいち早く秩序を取り戻すもっとも効率的なやり方として、「独裁官就任」を選択した。で、やることをやったあとは独裁官から降りる。それがスッラが目指した元老院によるローマの統治だから。

元々貧しい生活だったスッラは、権力をもっても私腹を肥やすことはなく、引退後は質素な別荘で気ままに過ごしたといいます。最終的にスッラは勝利して引退した訳だけど、スッラ自身はそれは「幸運だった」と回想している。スッラの名前の最後にある「Felix」は「幸運に恵まれた者」を意味します。

 

マリウスとスッラ、共に混迷のローマを立ち直らせようと言う使命に駆られ行動しました。反元老院を掲げて軍団からローマを再興しようとしたマリウス、逆にスッラは元老院の権威を復活強化してローマを立て直そうと考えた。

同胞を大々的に粛清したイメージがつきまとうスッラですが、その根底には純粋な愛国心と政治信念からの行動でした。混迷のローマはこうして、たくさんの人々を犠牲にしながら一つの方向へと向っていくのでした。

 

 

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空と雲と 中秋の名月

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今夜の月は「中秋の名月」。

雲一つない夜空に煌々と輝く

反射望遠鏡越しのため、模様が反転しています。

 

こちらは水面に写った中秋の名月

水面に写っている姿なので上下が反転しています。

今年の十五夜はとても神秘的でした。

 

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ちょっとローマ史5 混乱そして内乱〜共和政期

ハンニバル戦記とも言われるローマとカルタゴの戦争「ポエニ戦役」は他人の領地に入ってきたカルタゴを「あっちに行け」とローマが加勢したことから始まったのに、振り返ってみれば、130年にもわたるローマとカルタゴの全面戦争、ローマの完全勝利でカルタゴの滅亡という結末で終了しました。そう、領土拡大でもなく、カルタゴを最初から滅ぼそうとして始めたわけでもないのに、終わって気づいたら地中海全てをローマは手に入れてしまった。

ローマに負けたカルタゴの天才ハンニバルは、こう語っていたといいます。

「いかなる強大国といえども、長期にわたって安泰であり続けることはできない。国外には敵を持たずとも、国内に敵を持つようになる。外からの敵は寄せ付けない頑健そのものの肉体でも、身体の内部の疾患に、肉体の成長に従いていけなかったが故の内臓疾患に苦しまされることがあるのと似ている。」

(リヴィウス著「ローマ史」より〜ローマ人の物語Ⅲの冒頭にある一文)

ローマの内臓疾患

ローマはカルタゴとの戦いで思わぬほど急拡大を遂げてしまった。超大国として変化してくスピードに国内の実態がついていけなかったための歪みが、ローマを襲うことになります。

戦争に勝ったことで領土が拡張して国が豊かになると思いきや、逆のことが起こります。その歪みはローマ軍の屋台骨である平民(農民)を襲うのです。

領土が拡大することで、安い小麦が大量に輸入されるようになりイタリア本土の小麦農家がどんどん貧しくなります。また戦争で得た奴隷を労働力にした金持ちによる大規模農園が増加した結果、自作農民がどんどん貧しくなり失業して、ローマ市民の間での貧富の激しい格差が大きな社会的歪みとなるのでした。

また、ポエニ戦役でローマ市民と分け隔てなく共に戦った非ローマ市民たち、彼らは戦役後、戦利品分配の不平等や、そもそもローマ市民権がないことによる不平等からここでも貧富の格差と不満が大きく膨らんでいくのでした。

金持ち側からすると、自分達はどんどんさらに金持ちになるローマの現状は決して居心地が悪いものではなく、それが故に元老院はこの問題を直視しなかった。平民(農民)の失業問題はその屋台骨となっている軍事面の弱体化に直結するのですが、当時地中海の覇者となって、脅威となる外敵があまりいなかったためそれも、国家としての大きな問題とはならない。この問題に対して多くの貴族、元老院議員は既得権を守りたいためこの社会問題を放置していたのでした。

ポエニ戦役が終わって13年、急拡大したために大きく歪んだローマ社会に新たな力が現れることになります。

グラックス兄弟

グラックス兄弟は母方の祖父はハンニバルを倒した英雄スキピオ・アフリカヌス、父は平民階級でありながら2度執政官を勤めた人物。とても裕福な家庭に生まれ育ったのがこのグラックス兄弟でした。

兄:ティベリウスグラックス(Tiberius Sempronius Gracchus / B.C.163-B.C. 133)

ポエニ戦役はじめローマの勝利のために戦ったローマ市民が失業に追い込まれている現実を見て、30歳の時に行動を起こします。「なぜ平民だけが苦しまねばならないのか?」。ティベリウスはB.C.133年に護民官となり農地改革に乗り出します。それまで農地は国有地を平民たちに平等に貸出す形をとっていたのですが、それを裏金を使って不正に大量取得して大規模農園を経営する金持ちが絶えなかった。そこで不正に取得された土地を洗い出し平民へ再貸出する、というのがティベリウスの農地改革でした。

このティベリウスの農地改革は、至極真っ当でありながら、既得権を享受している貴族階級を刺激して、元老院の猛反対を受けることになる。一方で平民市民からは熱狂的に支持される状態となります。既得権を奪われることを阻止したい元老院は、この平民のティベリウスへの熱狂を「独裁」に結びつけて、反逆行為にすり替えようとした。大規模農園を持たない元老院議員もこれにより、「共和制を潰そうとするティベリウス」となり、ティベリウス派(平民)と反ティベリウス派(貴族)がローマ市街で激突し、ティベリウス本人とティベリウス派の多くが惨殺されてしまう事件が起きてしまったのです。

結局このティベリウスの農地改革はティベリウスが殺されることにより頓挫してしまいました。ローマへの忠誠心の下、平民の権利を回復しようとしたティベリウスは、共和制打倒も独裁者への野望も微塵も持っていなかったにもかかわらず、元老院に勝手にそういうレッテルを貼られ、最後は殺害されるという結末になってしまう。これはティベリウスの祖父でありポエニ戦役の英雄スキピオ・アフリカヌスも同じような目にあっている。そして、この後も平民はじめ多くのローマ市民のために行動する者たちが、少なからず同じ憂き目に遭うことになるのです。

このことは時代や国・社会の大小関係なく同じようなことが起きていることを思うと、やはり人間の本質は変わらないのだ、と僕はうんざりするのです。

 

弟:ガイウス・グラックス(Gaius Sempronius Gracchus / B.C.154-B.C. 121)

兄と同じく30歳で護民官に就任。兄の農地改革の再開はじめ、多くの改革をおこなっていきます。兄の代から家門名「センプロニウス」の名前がついたたくさんの法を提案します。そしてガイウスはローマ経済圏にいるローマ市民以外の人々も含めて改革を行わないと同様の問題が本国ローマ外でも起こることに気づき、「ローマ市民権を拡大する」法案を元老院に提出します。これはもともと建国の王ロムルスの時代からのローマがとってきた方法で、国家ローマとしては至極普通に思えるものでしたが、結局これも元老院の既得権を脅かす法案として、貴族たちから猛反対を受ける。

ここで再び元老院は「ガイウスは共和制を壊し、独裁者になろうとしている」とレッテルを貼り、排除しようとします。

元老院最終勧告(Senātūs cōnsultum ultimum)」これを突きつけられた者は国家の反逆者と認定され、裁判なしで処刑することも許される、名前のとおり最終勧告です。元老院はガイウスに対して元老院最終勧告を出し、ガイウスを追い詰めます。ガイウスは最後は自害することになったのですが、元老院はさらにガイウス派とみなされた数千人を処刑してしまうのです。

 

B.C.133年のティベリウス殺害事件から、実質的にローマは建国以来初めての内乱期に入ります。

元老院は国家の問題の本質を見ることなく既得権を守るために、同胞であるローマ人を処刑する愚を犯してしまいました。しかも市民の多くが求めた改革を進める若者を、愚かな欲のために殺してしまった。この時すでに元老院はおかしくなってしまっていた。ハンニバルが予言した「肉体の成長に従いていけなかったが故の内臓疾患」は元老院そのものでした。

更に、ローマ人の物語Ⅲでマキアヴェッリのこんな言葉が紹介されます。

「武器を持たない予言者は失敗を避けられない」

おかしくなった元老院と対峙するには武器が必要でした。しかしグラックス兄弟護民官として改革を唱えたが、武器を持たなかったために元老院によって殺されてしまった。グラックス兄弟が手がけた多くの改革は白紙にもどり、ローマ社会の問題は「武器をもった予言者」が登場するその時まで、そのまま放置されることになるのです。

 

参考文献

教養としての「ローマ史」の読み方

一度読んだら絶対に忘れない世界史の教科書 

ほか

 

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