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旅行の記憶と何気ない日常を

ローマ小話 ハンニバルとスキピオ

寛容を旨とするローマ人が唯一完膚無きまで叩き潰した国があります。当時強大な経済大国として地中海に君臨したカルタゴ(現在のチュニジア)です。

歴史上ポエニ戦役と言われるローマとカルタゴの戦争では先の2度の戦役でローマがカルタゴに勝ち、講和を結んで共存共栄と思ったところで、カルタゴが裏切りローマに戦いを仕掛け、3度目の戦いが始まってしまう。これにも勝利したローマは裏切り行為に対して容赦なく、最後はその首都を焼き払いニ度と復活できないように街全体に塩を撒いたほど(諸説あり)。

この戦争で双方に歴史的にも突出した天才が二人出現します。この二人は戦いの天才であると同時に「魅力的な人物」でもありました。

カルタゴの天才「ハンニバル」、ローマの天才「スキピオ」です。

ハンニバル(Hannibal Barca B.C.247-B.C.183)

アレクサンダー大王を学び、幼い頃からローマは潰すべき相手として叩き込まれた。実際に自軍に象兵を組み入れ、全軍率いて極寒のアルプスを超えてイタリア本土へ侵攻してローマ人の度肝を抜くなど、情報を重視した優れた戦略によってローマ軍をけちらし首都ローマに迫り、ローマを壊滅寸前まで追い込んだ。

ローマではこの時の記憶が深く刻まれ「戸口にハンニバルが来ているよ(Hannibal ad portas)」という危機が迫っているときに使う慣用句があるほどです。 

ハンニバルという人は人付き合いはあまり得意ではなく、生涯親友も持たず、妻も娶らず、同僚、兵士とも親しく交わることはなかったといいます。自分にも周囲にも厳しかったが、兵士たちはハンニバルをとても慕っていました。ハンニバルは食事はじめ戦役中はほぼ兵士とともに過ごしながら、一方でハンニバルが片付けなければならないことが山ほどあるため休息や十分な睡眠をとる事もままならないことを兵士たちもよく知っていました。宿営地で寝るのも一般兵士と共に、地面に直に兵士のマント1枚に包まれただけ。日頃の激務を知っている兵士たちは、ハンニバルのそばを通るときはハンニバルの眠りを妨げないように、武器の音など立てないように細心の注意を払ったといいます。こうしてどんな過酷な戦場でも、ハンニバルの兵士は誰一人、離れていくものはいなかったといいます。

 

スキピオ・アフリカヌス(Publius Cornelius Scipio Africanus Major B.C.236-B.C.183)

名門貴族コルネリウス一門の若者で、ハンニバルとは対照的にとても明るく、敵であっても一度会えばその魅力に引き込まれてしまうというほど、爽快な人物だったらしい。青年期からカルタゴにやられっぱなしのローマを見て、特にカンナエの会戦でなぜローマが破れたのか、どうやったらハンニバルに勝てるのか、一生懸命考えた。

そして出てきたその答えは「ハンニバルに勝つには、ハンニバルのごとく戦わなければならない」。スキピオハンニバルの弟子が如くハンニバルを研究し学びました。自ら元老院に直談判し、ローマの全軍を与えられた後はカルタゴ軍に連戦連勝、最後はザマの戦いでハンニバルに勝ち、劣勢だった第2次ポエニ戦役を勝利に導いてしまった。大国カルタゴ相手にローマを大勝利に導いたスキピオ凱旋式を挙行、もともとローマ市民に圧倒的な人気を持っていたスキピオは熱狂的に迎えられました。

 

アレクサンダー大王の弟子であることを公言していたハンニバルは師匠譲りの戦略でローマを壊滅寸前まで追い詰め、密かにハンニバルの弟子となっていたスキピオに、カルタゴのザマの地で破れることになる。

人間的には対照的な二人の天才は、戦いの後同じような運命をたどります。

ハンニバルは、ザマで敗れたとはいえカルタゴの民衆にとっては英雄として国政を任されるが、貴族階級の既得権を突く改革を行おうとして失脚に追い込まれ、カルタゴを離れます。その後に起きたローマとマケドニアの戦争に静かに参加したが、最後はローマ軍にその身を追われ、囚われる前に自刃してその生涯を終えることになります。

スキピオはアフリカヌスの称号を得て、民衆から絶大な支持をうけます。市民はスキピオに終身独裁官の就任を懇願するが、スキピオはこれを辞退する。しかし、スキピオのこの人気をよく思わない元老院大カトーを中心に「スキピオは独裁を狙っている」と嘘の糾弾を続け、いくらスキピオが否定しても、これをしつこく流布して最後は裁判にかけようとした。スキピオはくだらない権力争いに嫌気が差して、政治を引退し地方で隠遁生活を送ります。晩年のスキピオの記録は残っておらず、どのように死んだかもわかっていない。

偶然にもハンニバルスキピオは同じ年B.C.183年に亡くなっています。

ハンニバル64歳、スキピオ53歳でした。

 

英雄、天才、人気者は、それらの能力を持たない既得権者によって邪魔され、追い落とされる。歴史上も現代社会の組織でもよく見られる事象です。その人たちを盛り立てていくことで大勢が幸せになることがわかっていても、結局そんなこと、国や社会のことよりも、要職にありながら嫉妬と自分の既得権に囚われる者がいかに多いことか。

 

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ちょっとローマ史4 ポエニ戦役〜共和政期

カルタゴは現在のチュニジアに位置するフェニキア人の国。当時ローマ人が経済力ではかなわない、としていた経済大国です。紀元前3世紀、カルタゴギリシアの衰退によって地中海の通商を広く牛耳ることになり、特に西地中海はカルタゴの独壇場でした。

そしてカルタゴはイタリアの目と鼻の先、シチリア島の西半分を支配、さらにコルシカ、サルディーニャ島も領土としていたため、圧倒的な経済力と海軍力によってローマに不平等条約を結んでいました。当時のカルタゴ人は「ローマ人は地中海で手を洗うのもカルタゴの許可がいる」と豪語していたほど。

 

そんな中、紀元前254年シチリア島でポエニ戦役が始まります。まだローマ領でもなく、ローマと同盟関係にもなかったシチリア島の東半分にカルタゴが侵攻を始めました。ローマはこれに対しシチリア全土をカルタゴが支配することを防ぐために東シチリアへ援軍を送ったのでした。これがカルタゴ(フェニキア)を意味するラテン語「ポエニ」戦役の始まりです。

このときローマ人はまだ、この先130年にわたってカルタゴと全面戦争することになることなど想像もしていなかったようです。

 

第一次ポエニ戦役 (紀元前264-241年)

シチリアとその周辺で激突したローマとカルタゴの争いで、ローマとしては不平等条約結ばされた上、これ以上干渉してくれるな、近寄るな!という自衛行動の結果でした。

主な戦場は海となり、伝統的な海軍国カルタゴと、海は初めてのローマ軍が対戦という、誰がどう見てもローマ劣勢の構図でした。初めての海戦にあたりローマはギリシアの指導を受けながら見よう見まねで軍船を建造。その時に海の伝統がないローマならでは、海の常識を無視した新兵器「カラス(ラテン語 Corvus)」を導入、海戦の常識を覆した奇策によってローマがカルタゴ海軍に勝利します。カルタゴシチリアから撤退。このことはカルタゴが400年築き上げたシチリアでの利権と地中海の西半分を奪われることになり、第二回戦への布石となるのでした。

第二次ポエニ戦役 (紀元前219-202年)

第一次でローマに敗れたカルタゴは失った西地中海の代わりに、現在のスペインを侵略して領土を拡大します。それを指揮したのがカルタゴに現れた英雄ハンニバル。紀元前218年、象部隊を含む軍団を率いてスペインを攻略し、フランスを地中海沿いに東に進みます。そして、おそらく誰も考えもしなかった、象を率いた全軍で雪のちらつくアルプス越えを敢行します。そしてイタリア本土に侵攻、その後もイタリアの奥深くまで攻め込み首都ローマに肉迫しました。ローマはハンニバルに連戦連敗、特に紀元前216年ブーツ型のイタリア半島のアキレス腱のあたりにあるカンナエ(カンネ)の会戦で大敗を喫してイタリア南部のほとんどがハンニバル支配下になります。カンナエの会戦では数で優勢のローマ軍でしたがハンニバルの、現在でも陸軍士官学校の教材として扱われる戦略の前に完敗するのです。8万軍勢のうち6万人の兵士と百人近い元老院議員が戦死、1万人が捕虜となる歴史的な敗北でした。

そしてカルタゴというよりハンニバルにやられっぱなしのローマにも英雄が現れます。

プブリウス・コルネリウススキピオ(Publius Cornelius Scipio)は若干24歳でローマの軍団指揮権を元老院に求めます。ハンニバルに大敗続くローマの希望として、スキピオによるローマの逆襲が始まります。

ハンニバルの戦略を分析し尽くしたスキピオは、いわばハンニバルに学んだ弟子と言ってもよい。スキピオはいきなりの直接対決ではなく、まずスペインのカルタゴ軍を駆逐して、カルタゴ本国に侵攻します。これにより南イタリアにいたハンニバルは本土を守るために撤退せざるを得ず、イタリアから軍を率いて、カルタゴに引き返す。ここでスキピオハンニバルをイタリアから出すことに成功します。ローマが大敗喫したカンナエの会戦から14年後、紀元前202年、カルタゴのザマの地でその後のヨーロッパ世界の運命を決める決戦が行われました。

ザマの会戦は数の上ではローマが劣勢、しかし45歳になった古代屈指の名将ハンニバルは33歳のスキピオによってカルタゴは完敗しました。スキピオハンニバルに勝つために、ハンニバルを分析し尽くしハンニバルを超えました。

このザマの会戦を以って、カルタゴはローマと講和条約を交わし第二次ポエニ戦役は終了。不平等条約ではあったけど、ローマは敗者カルタゴに対して同盟者として認めて自治権を与えます。

凱旋帰国後、スキピオはアフリカを制した者としてスキピオ・アフリカヌスの称号が与えられました。

第二次ポエニ戦役後にカルタゴとローマ双方に登場した2人の英雄は同じような運命をたどります。それはまた小話として後程紹介します。

第三次ポエニ戦役 (紀元前149-146年)

第一次の始まりと全く逆の事が起こります。自治権は得たとしても、ローマとの不平等条約に我慢できず、またハンニバル亡き後の自分達を過信したのか、カルタゴはローマに戦争を仕掛けます。これが第三次ポエニ戦役。

一度許した相手が再び、剣を向けてきたことにローマは容赦しなかった。スキピオ・アフリカヌス養孫にあたる、スキピオエミリアヌス(Publius Cornelius Scipio Africanus Aemilianus)が率いたローマ軍にとってはハンニバルのいないカルタゴ軍は敵ではなく、簡単に勝負は決っします。

ローマはこの裏切り行為に対しては全く寛容は示されることなく、多くのカルタゴ市民を殺すか奴隷にされ、首都は焼き尽くされ二度と復活できないように、その土地に塩が撒かれました(諸説あり)。こうしてローマとカルタゴの130年にわたる戦争はカルタゴの滅亡によって終わりました。

ポエニ戦役がもたらしたもの

ローマが自衛のために始めたポエニ戦役は結果的にハンニバルによるローマ滅亡の危機を招き、ローマ大逆転で乗り切って、終わってみれば当時一の大国カルタゴを滅ぼして、地中海を広く影響下に置くことになりました。このポエニ戦役によって国家ローマは大きく変貌したのでした。

戦いの最後、カルタゴの街を焼き尽くす様子を見ていた、スキピオエミリアヌスは勝利の高揚ではなく、悲哀の気持ちでいっぱいだったと言います。燃えて崩れていくカルタゴの街をみて涙した。これだけの大国カルタゴでも最後は滅びる。ローマもいつかこういう時が来るのだろうかと。

我らの海

第2次と第3次ポエニ戦役の間に、衰退したギリシアを平定したローマは、第3次ポエニ戦役を終えて地中海全域を支配下に入れます。

ほんの130年前「地中海で手を洗うにもカルタゴの許可がいる」と言われたローマ人は、この頃から地中海のことをこう呼ぶことになるのです。

「Mare Nostrum  (我らの海)」

 

参考文献

教養としての「ローマ史」の読み方

一度読んだら絶対に忘れない世界史の教科書 

ほか

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ちょっとローマ史3 リキニウス法〜共和政期

紀元前509年にエトルリア出身の王タルクィニウスを追放し共和政への舵を切ったローマでしたが、周辺諸民族との戦いや内紛など、なかなかすんなり安定運行とはなりません。アテネに調査団を送って、「十二表法」を作るも逆効果、貴族と平民の溝は深まるばかり。

紀元前390年、ガリア人による首都ローマの破壊・占拠という一大事が起こります。イタリアのずっと北部、現在のフランスを中心に居住していた民族ガリア人(ケルト人)が退去してローマに攻めてきた。当時ガリア人は「森林の民」と呼ばれ勇猛果敢で知られていましたローマはそれを食い止めることができず、ローマの街は破壊され、ローマの大半が占拠、ローマ人はカピトリウムの丘に籠城するという事態が起きてしまった。

このローマにとっての悲劇の伏線は、大国である宿敵エトルリアとの戦いに勝利し、遂にローマに組み込んだことにありました。せっかく念願かなってエトルリアに勝ったのに、このことが皮肉にもガリア人によるローマ占拠という事態を招いてしまった。

理由の一つは、大国エトルリアイタリア半島付け根にあって防衛力をもっていたから、ガリア人はイタリア侵入ができなかった。そのエトルリアが弱体化したので、気軽にイタリアへ行くことができるようになった。もう一つは、手に入れたエトルリアの土地を巡ってのローマの内部の対立により、攻めてきたガリア人を抑える力が当時のローマにはなかった。

ローマ人はガリア人を抑えることができず、最後は狭いカピトリーノの丘の限られた土地での7ヶ月におよぶ籠城を経て、ローマが300kgの金塊をガリア人に渡すと、彼らはあっさり去っていった。当時蛮族と呼ばれたガリア人はローマの街を破壊して手当たり次第のローマ人を殺戮して去っていった、7ヶ月の籠城の間、そこにいたローマ人はその様をただ眺めることしかできなかったといいます。ローマにとっては屈辱しかない出来事でした。

ロムルスによる建国から360年余り少しずつ発展を遂げたローマの街はゼロにリセットされます。しかしここで生き残ったローマ人たちはローマの再建に励み20年かけて街はほぼ元通りとなりました。ガリア人にあっさり突破された防衛網を強化して、周辺諸国とも戦いに勝つと言う形で再度同盟を結び関係を強化します。

そしてローマは内政面で画期的な改革を行います。

リキニウス法(リキニウス・セクスティウス法 / leges Liciniae Sextiae)の成立。紀元前367年、平民出身の護民官リキニウス(とセクスティウス)が提案し、元老院議員たちが賛成した法律で、共和国政府全ての官職を貴族・平民関係なく解放するものでした。生まれや身分に関係なく、元老院議員にもなれる、執政官にだってなれるという、画期的なものでした。

ローマ人は「ガリア人によるローマの破壊」という大敗北の原因が1世紀に及んだ貴族と平民の対立にあると分析しました。リキニウス法の成立という大英断は、完膚無きまでの敗北から学んだ、2度と同じようなことが起こらないようにするための決意でした。

その決意を表した神殿がこの時建てられました。

コンコルディア神殿。リキニウス法の成立を記念して、長年対立してきた貴族と平民が協力、調和、一致してローマを作っていくのだということを誓います。この「調和・和合」を司る女神コンコルディア(Concordia)に捧げる神殿です。

ガリア人との完全な敗北によって、ローマは大きく生まれ変ります。これから前例を見ない大国への第一歩を踏み出すことになるのでした。

 

場所はフォロ・ロマーノのセプティミウス・セウェルスの凱旋門のすぐ後ろ側にありましたが、残念なことに今は何も残っていません。

 

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ローマ小話 S.P.Q.R.

現在のローマの街を歩くと、あちらこちらで目にする「S.P.Q.R」の文字。何かのお知らせのチラシの最初に、看板の頭に、街灯に、マンホールの蓋に、そして古代ローマの遺跡に、このS.P.Q.R.の文字が並びます。

S.P.Q.R.とはラテン語で”Senatus Populus Que Romanus”の4つの頭文字です。直訳すると「ローマの元老院と市民」。これはローマ共和政、帝政通じて古代ローマの国家そのものを表すサインとして共和政期から使われるようになりました。

意味としては、文書に書かれるのであれば「元老院議員ならびに市民諸君、注目!」「ローマ市民のみなさーん!」という呼びかけだったり、軍の軍団旗にS.P.Q.R.と刻んで、「我々はローマの軍団である」ことを示し、公共建物や施設にはローマ(元老院と市民)のものであることを示すために、いろいろなところにこのS.P.Q.R.が誇らしげに刻まれていました。

 

この写真はフォロ・ロマーノのサトゥルヌス神殿。ファサードにはS.P.Q.R.の原文が刻まれています。

 

カエサルのフォロの前に立つ、カエサルの像。ここの台座にもS.P.Q.R.。「ローマの元老院と市民諸君!ユリウス・カエサルです!」という感じでしょうか。CAESARの文字より、S.P.Q.R.の方が文字が大きいんです。

 

これはカピトリーノ広場の現代の街灯の根本にあるS.P.Q.R.。現代のローマ市は古代に倣って街のあちこち、掲示物やお知らせその他いろいろにS.P.Q.R.を使用しているらしい。現在ローマには元老院はないのですが、古代ローマの末裔として(?)S.P.Q.R.を活用している模様。

ローマ人にとっての「S.P.Q.R.」は国家ローマそのものを表すサインでした。ローマ市民にとっての安心であり、心のよりどころであり、誇りでもあった。ローマ軍の兵士たちはこの4文字によって士気を高められ、「S.P.Q.R.」の文字に命をかけた。ローマ人の心揺さぶる、そんな力がこの「S.P.Q.R.」の文字にはありました。

 

現在でもローマ市でこの「S.P.Q.R.」が使われてるわけだけど、古代ローマ人は多分寛容に「好きなだけ使え!」と言ってると思います。

 

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ちょっとローマ史2 王政から共和政へ

第7代、最後の王となったタルクィニウスの暴君っぷりに散々懲りたローマ人は、これ以降独裁政への嫌悪感を民族のDNAにこれ以上ないほど深く刻みこむことになりました。

ローマの王は世襲ではなく選出により決まるので、王政とは言っても絶対王政ではありません。伝説が本当だとして初代王ロムルスが定めたという、3つの機関「王」「元老院」「市民集会」を機能させれば、またローマの「王」の性質からして「独裁者一人のなすがまま」の状態は避けられそうなものです。しかし「王」という肩書きの魔力なのか、それなりの権力が与えられてしまうと、それに乗じたおかしな人物が現れてあらぬ方向へ組織が進んでしまうというのはいつの時代も、大小関わらずどこの組織にも起こるようです。

いずれにせよこのエトルリア人の王タルクィニウス・スペルブスによって、ローマ人のDNAには完全にアンチ王(独裁)が刻まれ、国家は新しい国の形、共和政へ移行していきます。

このローマの共和政は王の代わりに二人の執政官(コンスル / consul)が政治を執り行います。元老院の中から二人、任期1年として国政にあたる。元老院と市民集会はそのまま継続。選挙で選ばれるがひとりの終身職だった王を、任期1年で2人の執政官を置くことで権力集中とチェック機能の強化を図ったといえます。

共和政ローマの初代執政官のひとりは最後の王タルクィニウス・スペルブス追放を実現し、のちに「伝説の執政官」と呼ばれるルキウス・ユニウス・ブルートゥス(Lucius Iunius Brutus)でした(ちなみに後のカエサル暗殺の首謀者マルクス・ブルートゥスの先祖にあたる)。

ローマは509年に共和政に代わったといっても後も、当時はまだ「王」が「二人の執政官」に代わっただけ、ほぼそう言う状態でした。旧王タルクィニウス勢力との争いや、王の名の下に同盟を結んでいた周辺都市の裏切りとの争いが絶え間なくつづきました。この絶え間ない戦争は兵士として駆り出されるローマ市民、とりわけ農民たちを苦しめ、貴族と平民の対立が深刻になります。当時のローマにとって、内部統制を万全にし、国家としてのまっとうな仕組みを作ることが急務でした。

そこでローマは調査使節団を派遣します。紀元前5世紀半ばに地中海世界でもっとも成功していた都市国家アテネへ、国あり方、社会制度や法律などを学ぶために視察団を送ります。元老院議員3人で構成された視察団は約一年間アテネに滞在してさまざまなことを学ぶのでした。僕はこの3人のアテネ派遣にとても興味津々です。

アテネ アクロポリスパルテノン神殿

当時アテネは黄金期を迎えていました。天才政治家ペリクレスにより史上初めて民主制が成立し、おそらく政治経済そして文化において他国を圧倒する強い都市国家となっていました。ローマの使節三人はその輝かしいアテネを訪れ、アテネの民主政はじめ社会の仕組みについて注意深く観察した。そして彼らはあることに気づくのです。

アテネの政体は表向きには民主政ではあるが、ペリクレスがいなければ成り立たない、一種の独裁制であると。

*ユーロになる前、ギリシアのコインに刻まれるペリクレスの肖像

この時派遣された三人の元老院議員はアテネの表に見える成功ではなく、その後ろ側にあるものを洞察しました。何が優れて、何が劣り、自分達が取り込むべきモノが何かを的確的に判断した(この約20年後、ペリクレス亡き後のアテネの運命はこの三人の見方が正しかったことを証明します)。

三人が帰国後、この視察の結果をもとにローマで初めての成文法「十二表法(Lex Duodecim Tabularum)」が紀元前450 年頃に誕生します。訴訟、債務、家族、結婚、相続、財産、不動産、葬儀、犯罪などに関してまとめられたといいます。視察団の3名も加わった特別な委員会組織で制定され、完成した条文は12枚の銅板に記されたことからこの「十二表法」という名前がつけられたといいます。しかしこの「十二表法」の中身はローマ市民からするとかなりの期待はずれだったといい、その結果、後世何度も修正されたため完成当時の「十二表法」は今となっては「よくわからない」と言う状態らしい。なんともお茶目です。

この話を聞いて、僕はこう思ったんです。

三人の元老院議員は絶頂期のアテネを中心にスパルタなど先進的なギリシア都市国家を巡ったと考えられます。特に当時アテネの街は、現代に至る建築の頂点で、当時完成したばかりのパルテノン神殿アクロポリスの丘に聳えていたはず。彼らは目を見張るような神殿や彫刻といった芸術や、数学や科学、哲学やさまざまな学問が街に溢れているのを目の当たりにして、全てにおいて自国ローマを思い、比較してしまったと思います。そして相当に焦ったのではないかと。成文法もさることながら、国家の方向性をさっさと定めて、早くローマをアテネのような都市国家に近づけたい。そう思ったに違いない。と勝手に想像してしまうのです。

紀元前753年、ならず者の集まりだったローマは、300年たった紀元前5世紀にはギリシアで冷静にその民主制の意味を読み取れるだけの人材を備える国家に成長しました。いろいろな混乱の中、ローマの共和制は始まり、模索しながら走りながら、500年をかけて少しずつ共和国としての形を整えていくのでした。

 

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真実の口 マルケルス劇場界隈4

ローマきっての観光名所となっている真実の口( Bocca della Verita)。

フォロ・ボアリオから通りを挟んだ向こう側には、かつてヘラクレスための大きな祭壇があったといいます。昔ここに出没した牛泥棒を退治したのがヘラクレスである(ということになっている)という謂れで、ここはヘラクレスに守られる場所となっていました。そして、かつてヘラクレスの祭壇があった場所にサンタ・マリア・イン・コスメディン教会(Santa Maria in Cosmedin)が建てられたのは6世紀ごろ。

この教会の柱廊式玄関の端っこに、さりげなくいるのが真実の口。ギリシア神話の海の神オケアノス(Oceanus)をかたどったとも言われる大理石の円盤は古代ローマのマンホールのフタと言われています。古代ローマの都市は首都ローマだけでなく、地方都市でもインフラとして上下水道が完備されていました。2000年前、その下水道の蓋として機能していたこの大理石の円盤が今「真実の口」という役割を得て、数えきれないほど多くの観光客の手をその口で受け止めているのです。

この口が教会の正面柱廊に置かれるようになったのは17世紀になってから、と言われます。ルネサンスで掘り起こされた大理石のマンホールの蓋、同じく掘り起こされたであろう神殿の柱頭(イオニアとコリント式がミックス)に乗せた形でひっそりと置かれています。

6世紀に完成以降何度も改築され、ロマネスクの鐘楼を持つとはいえ、ローマの他の教会や遺跡に比べたらとても地味なこの教会を、一大観光名所にしたのは映画「ローマの休日」。

「うそつきがその口に手を入れると手を噛み切られる」という真実の口の伝説。

ローマの休日」では、オードリー・ヘプバーン演ずるアン王女の前で、Joe(グレゴリー・ペック)が「伝説の口」に手を入れると、手首を噛みちぎられる小芝居を打つという、ローマの休日の中では一番スリリングなシーン。

実際の撮影でグレゴリー・ペックはあの「手が噛みちぎられる小芝居」をアドリブで加えました。なので、あのオードリーの半べその大騒ぎは素の姿で演技ではないというのは有名な話。続いて映画では散々大騒ぎした二人(+カメラマンのErving)が去った直後に、真実の口のアップがほんの短い時間映ります。。真実の口の何ともいえない寂しそうな、微笑を浮かべたような姿がとても印象的で、真実の口がとてもいい演技をしていました。

 

この映画のおかげで、ここには観光客が絶えません。みんな一様に、マンホールの口に手を入れにっこり記念写真をとり、去っていく。この一枚の記念写真を撮るために長い列に並ぶのも厭わない。日中は長い行列がこの教会の前にはできるのです。

かく言う僕も真実の口に手を突っ込んだ一人なのですが、やはり朝方は人が少なく、ゆっくりと真実の口を堪能できます。口の中は意外と浅くしっとりとした感覚を今でもはっきり覚えています。

ローマの休日」は1954年の映画で、今から半世紀以上昔になる。ところが、今目にするローマの街は映画に出てきたローマの街とほとんど変わっていない。真実の口も、トレヴィの泉も、サンタンジェロもみんな映画のままだ。日本で50年前といったらまるっきり街の様子は変わっているだろう。

もっとも、ローマは二千年前の名残がごろごろしている街。50年などという時間は瞬きする間のようなものか。

 

 

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フォロ・ボアリオ マルケルス劇場界隈3

フォロ・ボアリオ(イタリア語: Foro Boario / ラテン語:  Forum Boarium)

真実の口広場に面しテヴェレ川のほとりに位置するフォロ・ボアリオ。ここには共和政ローマ時代の古い二つの小さな神殿が残された、静かで小さなフォロです。

パラティノ、カピトリーノ、アヴェンティーノの3つの丘に挟まれたこの場所は古くから人が集まる場所、交通の要衝、商業の街として発展します。

元々王政期には、ここは牛市場でした。

6世紀にローマが共和制に移行すると、テヴェレ川に面したこの場所にはローマ最初の港ポルトゥス・ティヴェリウム(Portus Tiberium)ができました。また紀元前264年、この場所でローマで最初の剣闘士の試合が行われました。当時は葬儀の儀式として剣闘試合が行われたそうで、この時父を亡くした家族が3組の剣闘士による試合をおこなったという記録がある。

この場所は長い時間の流れの中でとても重要な役割を果たしてきました。現在の様子はとても地味なのだけど、地勢的な観点からも、そういう人が集まり活発な交流が生まれ、何かが生まれる場所になるべくしてなったと言えます。

そんな場所に今も建つのはヘラクレス・ヴィクトル(フォルトゥナ・ヴィリリス)、ポルトゥヌスの二つの神殿。

手前の円形の神殿はヘラクレス神殿。その形から何世紀もの間「ヴェスタ神殿」と呼ばれていました。

紀元前2世紀に建てられたペリスタイル建築で、ぐるりと周囲をめぐる20本のコリント式円柱のうち19本が当時そのまま残っています。まだローマが大理石の街へ変貌するずいぶん前、既に大理石で建てられている事から、とても重要な神殿に位置付けられていたことが想像されますが、正確な記録が残っておらず、誰が何のために建てたのかわかりません。これだけしっかりと文字で記録が残っているローマにおいては、珍しいことかもしれません。ローマに現存する最古の大理石建築としても知られます。

丸く円柱を周囲に巡らせる様式はとても柔らかく女性的な印象を受けます。街の景観に対する柔らかなアクセントとしても重要な役割を果たします。

 

そして奥にあるイオニア式円柱をあしらった小さな神殿は川と港の神を祀るポルトゥヌス神殿。紀元前100年頃に建てられた、長方形の土台に正面に4本の自立するイオニア式円柱、壁に埋め込まれる形でさらに10本の円柱があしらわれています。 こちらも何世紀にもわたってフォルトゥナ・ヴィリリス神殿と呼ばれていました。

どちらも古代ままほぼ完全な形で残ると言われる数少ない遺跡。西ローマ帝国の末期に二つの神殿共にキリスト教会に改築されたおかげで昔のままの姿を止めることができたといいます。

このフォロ・ボアリオを背にして立つとあの観光名所が道を挟んだ向こう側にあります。こちらの静寂とは真逆の喧騒が遠くからもわかりました。。。

あそこには朝早く行くことにします。

 

 

 

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