
東ローマの終焉は古代ローマから続くいわゆるローマ世界の終わりを意味します。古代ローマに興味がある人々にとってはその人それぞれの立ち位置によってローマの終わりの日が変わってきます。その中でも西ローマ帝国が滅びた476年と東ローマ帝国が滅びた1453年はたくさんの人が古代ローマの終わりと位置付けていると思います。東ローマ帝国での出来事は、キリスト教の歴史とも深く関わっていてより複雑です。
現在のトルコの首都イスタンブルの前にあった、この東ローマの終焉に触れておきたいと思います。
特異点
地中海をすっぽり覆うような大帝国を築いたローマ人。ローマ帝国の中で公用語は主に二つ使われていました。一つは首都ローマを中心としたラテン語、もう一つはギリシア語です。イタリア半島より西側では主にラテン語、ギリシアより東側ではギリシア語が主に使われていたようです。文化的にはローマより早くに最盛期を迎えたギリシアやエジプトがある東側と当時でいえば新興地域にあたるローマの西側で区分されます。
現在のトルコは当時ギリシア語圏に属していて、イスタンブルは東ローマの時代では「コンスタンティノープル」と呼ばれましたが、元々は紀元前7世紀にギリシア人が作った「ビザンチウム」というギリシア都市でした。またこの場所は地勢的に東西ローマの交通と貿易、情報の要衝となり大きく発展していくのですが、おそらくギリシアの洗練された芸術と学問、ローマの政治力、インフラの力に加え、東方世界(オリエント)の富が集まる、古代社会の中でも異質な、特異点ともいえるような場所だったと想像できます。

*東ローマは476年一旦ローマ世界の東側を領土とした後、550年には西ローマの領土だったイタリア半島アフリカやスペインの一部まで領土を拡大する。
ローマを征服したキリスト教
帝国ローマが衰退を始めるのと合わせてキリスト教が起こり成長していきます。ローマ社会におけるユダヤ人たちの運命を目の当たりにしたキリスト教徒は、約300年かけてローマの中枢に入り込み、ついに313年のミラノ勅令を勝ち取ります。ミラノ勅令では大帝コンスタンティヌス1世によって、キリスト教の公認が宣言されます。キリスト教は300年かけて国家に公式に認められた存在という地位を獲得するのでした。
330年に大帝コンスタンティヌスは、ビザンチウム(現イスタンブル)を東ローマ帝国の首都として定め、「コンスタンティノープル」と改名します。

*「大帝コンスタンティヌス(右)が聖母子にコンスタンティノープルの街を捧げる」アヤソフィアのモザイク
392年に東ローマ皇帝テオドシウス1世がついにキリスト教をローマの国教に定め、古代ギリシア・ローマから続く多神教はじめキリスト教以外の宗教を排除します。
これにより古来からのギリシア・ローマの三百万もの神々は全て否定され、これを境に平和の祭典オリンピア競技会(古代オリンピック)も禁止されることになったのでした。
この頃にはローマ皇帝も洗礼を受けて神に跪くキリスト教徒になるわけなので、見方によってはローマ帝国はキリスト教によって征服されたと言って良いでしょう。
公会議
313年にミラノ勅令によってキリスト教は国家公認となると、信徒が増え組織として巨大化します。するとキリスト教内部のあちこちで歪みが生まれいわゆる教義の解釈の違いがが、たくさんの宗派が生むことになります。それを発散しないように取りまとめる役割を担ったのが「公会議」というシステム。キリスト教の各地の司教が集まりその内容を協議するもので最初の公会議は325年にニカイアで開かれたニカイア公会議。ニカイア公会議は、いくつもの宗派が乱立する中「父と子と聖霊」の三位一体を唱えたアナスタシウス派と呼ばれるひとつの宗派を正当なキリスト教と定め、これ以外の全ての宗派、宗教は異教として禁止したキリスト教の大方針を決めた公会議でした。公会議は現在までに21回開催されているそうです。一番最近は1960年代に開催された第2バチカン公会議。約1600年で21回だから80年に1回のペースで開催されていることになります。僕が知っているのは1545〜1563年にかけて行われたトレント公会議。当時の宗教改革に対抗するカトリックの立て直しを図った重要な公会議でした。ただ僕がこの公会議を知っているのは、システィーナ礼拝堂のミケランジェロの天井画や壁画が異端審問にかけられ、破壊の瀬戸際に立たされた公会議だったから。結果、腰布を加筆することで残すことを決めた公会議でもあったからです。
ちょっと脱線したけれど、公会議は最初の頃、神の代理人であるローマ教皇、あるいはローマ皇帝が召集をかけてキリスト教の方針を決定し、大きな分裂を防いでいたのです。330年以降のローマ世界はキリスト教を軸に動いていきます。そして首都ローマを中心とした西ローマが揺らぎ滅亡に至ると、キリスト教社会の勢力図も大きく書き変わっていきます。西と東に大きく分断されることになるのです。
東西大分裂
元々キリスト教の総本山としてローマがあり、イエスの十二使徒の筆頭ペトロ後継者であるローマ教皇は神の代理人としてキリスト教会全体の頂点に立つ、というのがローマを中心とした、のちにカトリックと呼ばれるようになる西側教会の考えでした。これはローマ帝国が滅んでもキリスト教は変わらず存在し、その中心はあくまでローマ教皇なのです。

*ローマカトリック総本山サン・ピエトロ大聖堂
一方でコンスタンティノープルで派生していった考え方は、「五大総主教」と呼ばれるローマ・コンスタンティノープル・アンティオキア・アレクサンドリア・エルサレムの5人の主教が全ての教会、信徒を束ねていくというもので、コンスタンティノープルはローマ教皇への権威の一極集中を認めなかった。

*かつて東方正教会の総本山だったアヤソフィア
この考え方の違いは、ローマ帝国の中で生まれたカトリックと、キリスト教と共に発展していったコンスタンティノープルおよび東方正教会といった生い立ちの違いと、ラテン語文化圏とギリシア語文化圏という文化圏(場所)による違いによるところが大きかったようです。カトリックはかつてのローマ人と同じく法律や組織を重視するのに対して、東方正教会では、キリスト教の奇跡や神秘性、伝統を重視する。この場所や文化・歴史的な背景に基づいた考え方の違いは、ローマ帝国そのものの衰退と重なって、キリスト教を分裂させることになるのでした。そしてその分裂を決定的にした出来事が「大シスマ(相互破門)」と呼ばれる出来事です。
大シスマとは1054年に起きた、東西双方が双方を破門した出来事。ローマ教皇の使節がアヤソフィアに訪れ、コンスタンティノープル側の教会を破門する文書が提出される。するとコンスタンティノープル側もローマ教皇を破門すると宣言し、双方が双方を破門してキリスト教会は完全に二つに分裂することになりました。
こうしてキリスト教は西と東に分裂して、ローマのキリスト教は「カトリック」と呼ばれ、コンスタンティノープルのキリスト教は「(東方)正教会」と呼ばれ区別されるようになるのです。
しかし、この時点ではまだ東西教会は完全に袂を分かったわけではありませんでした。相互に破門はしたものの、まだこの時は同じキリスト教徒として助け合うことができる距離感を保っていました。この後のオスマントルコなどイスラム教徒の脅威が現実となると、キリスト教徒として十字軍を結成し、一致してこれに対処することにもなるのです。しかし、結果的に十字軍はあらぬ方向へ向かい、ついに取り返しのつかない事象へと進んでいくのでした。