オードリーヘプバーン(Audrey Hepburn)
彼女がこの世を去ったのが1993年1月20日。僕はその4年後の1997年にへプバーンが後半生を過ごしたトロシュナ村へ、共同墓地にある彼女のお墓を訪ねる事ができました。
僕にとってオードリーヘプバーンという人はどういう人だったのか。
学生の頃、テレビで放送された「ローマの休日」でその姿を初めて見て、その神々しい姿と立ち居振る舞いに惹かれました。またちょうど同じ頃、リアルタイムのオードリーヘプバーン本人はユニセフの親善大使として内戦で混乱する難民キャンプを訪れ、その姿をテレビを通じて目にしていました。
ユニセフの大使として苦しむ子供たちの実情を世界に知ってもらうために、癌を患い自身も苦しみながら、あちこち足を運んでいたのです。亡くなる4ヶ月前のソマリアで飢餓で苦しむ子供たちを抱いて、自分の姿と一緒に世界に訴えていた姿が忘れられません。
こうして、不幸な子供たちを助けることが自分の役割であり、今までの映画俳優としての人生はそのリハーサルだったと語っていたそうです。
僕はその始まりと終わりをほぼ同時に見たということになります。
「ローマの休日」
説明するまでもなく1954年に公開された巨匠ウィリアムワイラー監督による映画。オードリーヘプバーン初の主演でアカデミー主演女優賞を獲得した作品。オードリーヘプバーンの印象が強烈だけど、映画としてとても緻密に作り上げられた珠玉の一本。
「娼婦を演じることができる女優は大勢いるけど、貴婦人を演じることができる女優は滅多にいない」と言われている中、オードリーヘプバーンはヨーロッパの小国の王女「アン」を見事に演じ切ります。
1929年5月4日、オードリーヘプバーンはイギリス人銀行家の父とオランダ王室直系貴族の母との間にベルギーのブリュッセルに生まれ育ちました。その血筋はオードリーヘプバーンを数少ない「貴婦人を演じることができる女優」として、ローマの休日のアン王女はそれを証明するかのような最高のはまり役でした。でもアン王女の放った魅力はもっと奥深いものだった。
僕は学生時代のある日、夜中にテレビでひっそり「ローマの休日」が放送されたのを観た。それが僕にとっての初めての「ローマの休日」。今思うと所々重要なシーンをカットされながらの放送だったけど、オードリーヘプバーンのアン王女の魅力を知るには十分でした。以来数えきれないほどこの映画を見ていますが、何度見ても飽きることはありません。ストーリーも裏側にあるテーマも、アン王女の輝きも。そしてアン王女の色あせない輝きとは、演技や演出だけでは到達し得ない、オードリーヘプバーンの内面から滲み出てくる聡明さによるものなのだろう。色々な記事や記録から追うしかできないけれど、調べるごとにそれが間違いないと思うようになっていったのでした。
"ローマの休日"ラストの記者会見、台詞はなく、その表情と仕草だけで綴ったあのシーンは忘れられません。
「生い立ち」
イギリス人銀行家の父とオランダ王室直系貴族の母の間に生まれたオードリーヘプバーン。しかし幼い頃に両親が離婚し、世の中は第2次世界大戦に突入します。少女期はナチスドイツ占領下のオランダで過ごし、レジスタンスの連絡係として危険な任務を果たしながら悲惨な戦争を生き抜きました。その間、多くの肉親失ない、自身は戦争が終わるまで飢餓と壮絶に闘いました。死と隣り合わせの少女時代、バレリーナを夢見ていた彼女は戦争中も年下の子供達にバレエを教えたり、バレエを通してレジスタンス運動に参加したりしていた。
こうして悲惨な少女期を生き抜く中で、戦争とは何を意味するのか、飢餓とはどんな苦しみなのか、希望を持つことにどんな意味があるのか、心に刻まれたのでしょう。
戦争が終わりバレエ学校に通う傍ら、生活費を稼ぐためにモデルやナイトクラブ、ミュージカルのコーラスガールのアルバイトをしながら過ごし、やがて映画の端役を得てこれが転機となります。
その映画の中でオードリーヘプバーンを目にしたフランス人作家ガブリエル・コレットがブロードウェイの舞台「ジジ」の主役に抜擢。
この舞台の成功が巨匠ウィリアム・ワイラーの目に留まり、あの"ローマの休日"が誕生するのです。
そしてオードリーヘプバーンの遺作となったのは、S.スピルバーグの「オールウェイズ」(1989)。白いシンプルな衣装をまとった「天使」が映画人としての最後の役でした。長い時を経てもスクリーンに映し出されるその姿からは、やはり深い聡明さが、ローマの休日の頃よりも更に強く放たれていました。
「天職」
晩年はユニセフの親善大使として、大人の勝手な争い事に巻き込まれてしまった世界各地で苦しむ子供たちのために尽くします。少女期に体験した第2次世界大戦中の体験がユニセフの親善大使となる強い動機となったと言います。そしてハリウッドで長く活躍したアカデミー賞女優としての名声をこの恵まれない子供たちのために活かす、それまでの成功は全てこの仕事のためにあった、女優としてのキャリアはこの仕事のためのリハーサルだったと、オードリーヘプバーンは語っていたそうです。
僕にとってオードリーヘプバーンという人は、とても聡明で、凛とした、優しい風のような人。
オードリーヘプバーンは1993年1月20日に亡くなりました。1965年にここトロシュナ村に家を購入して以来、終生この村を愛し続け、人生の最期もこの村で迎えるのでした。
お墓もこの村の小さな共同墓地の中にあります。
僕はトロシュナ村へ行って生前彼女が住んでいた家やお墓、記念館を訪れることができました。
共同墓地にあるお墓には名前と生年と没年が記されているだけのとても質素なものだけど、その周りはたくさんの花に囲まれている、とてもオードリーヘプバーンらしいお墓でした。
彼女のお墓からは左手にトロシュナ村、右手にはスイスのなだらかな丘に広大なブドウ畑が広がっているのが見えるのです。そこにはとても優しい風が吹いていました。