週末、旧市街カテドラル前の広場、どこからともなく楽団が現れ演奏を始めると、さっきまでは人でごちゃごちゃだった広場にはいくつもの輪ができて、老若男女が手をつないで軽やかにステップを踏んでいる。
それぞれ買い物かごなど自分の荷物を輪の中心にまとめて輪を作り踊る。中には専用の靴に履き替え踊っている人も大勢いる。
年輩者達は楽しそうに誇らしげに。
若者たちは大切な伝統文化を楽しく真剣に。
”サルダーナ"
音楽もステップも軽やかだが、表面的な"軽さ"とは裏腹に、そのエネルギーたるやすさまじいものが感じられた。民族の勢いというか団結というか、サルダーナにはそんな秘めたる力がある。この人達は間違いなく自分たちがカタルーニャ人であることに誇りを持っている。この誇りや情熱はどこから来るものだろうと探ってみれば、彼らがたどった歴史にたどり着く。
カタルーニャは遙か昔から様々な民族の交流地点だった。先住民族はイベロ族。そして紀元前6世紀ギリシア人がやってくる。その後カルタゴ(フェニキア)人がすみつきバルキノという街を作ったのが現在のバルセロナの始まり。紀元前3世紀ローマ人がタラゴナ中心にローマ都市を造る。そして西ゴート王国(ゲルマン人)が・・という具合に、紀元前以来様々な民族がその文化とともに絡み合い、独自の文化圏を形成してきた。
いろいろな才能を持った民族がこの地にとどまり、互いの文化、思想、技術を刺激しあいカタルーニャ独自の自由な文化を形作っていき、やがてカタルーニャに住み着いた多数の民族はキリスト教、カタルーニャ語という共通の宗教、言語を持つようになり、自由自治を尊重する一つの民族"カタルーニャ人"としての結束を深めていったのでした。
その昔から地中海を舞台に活躍してきた故か、カタルーニャ人は自らを"地中海の子"と呼びます。確かに最初にここを訪れたギリシア人もカルタゴ人も海洋民族であり優秀な商人だった。その才能は脈々と受け継がれ、13~15世紀に再び花開き、アテネ、シチリア、ナポリを手に入れ地中海貿易を手中にする事でカタルーニャは黄金期を迎えます。また、このころ封建体制をとる他のキリスト教国家とは異なりカタルーニャは自由自治を貫いたのでした。
しかし15世紀後半、カスティリアとカタルーニャが併合(現スペイン)されたが、事実上カタルーニャが吸収される形となり、政治の中心はマドリッドに移された。それ以降もカタルーニャ人は自国の文化は守りつつ、常に独立を叫び続けたのでした。
18世紀、王位継承戦争に敗れたカタルーニャはついに自治権を奪われカタルーニャ語の使用さえ禁止されてしまう。以降1975年フランコ独裁政権が倒れるまで、カタルーニャ語が公に使われることは許されなかった。
そんな中でも"カタルーニャ主義"は根強く生き続けました。
建築家アントニ・ガウディが警察に職務質問を受けたとき、カタルーニャ語でしか受け答えなかったために拘留された話は有名。そして現在もカタルーニャの独立の声はおさまることがなく、カタルーニャ人は自分たちがスペイン人だとは思っていない。彼らはカタルーニャ人なのです。
紀元前以来の様々な文化と接してきた自由な空気がアントニ・ガウディ、パブロ・ピカソなどの天才達をはぐくんだ。そして15世紀以来のカタルーニャ民族への弾圧は、自由を尊重してきた民族としての誇り、情熱、団結をより一層大きなものにしました。多くの外敵からの迫害を乗り切った民族というのは団結力、民族への愛情がとても強い。ユダヤ民族も然り。他の民族を支配し弾圧はしたが逆の経験はない、我々日本人にはないエネルギー、民族というものに対する情熱が彼らにはある。
彼らカタルーニャ人が大切にしてきたサルダーナは紀元前にギリシアから伝えられ、現在に至るまで様々な迫害にも屈することなく力強く伝えられてきた。そして、あらゆる世代の人々が踊り伝えてゆく。
広場の傍らで眺めていた僕には彼らの情熱が痛いくらいに伝わってきた。それもそのはずである。サルダーナにはカタルーニャ人のすべてが込められているのだから。
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