いろいろなモンブランを眺めてみます
エギュイーユ・デュ・ミディからいわゆるこれが、よく知られるモンブランの姿。
バレブランシュから眺める、シャモニの裏側からみるモンブラン。だいぶ「魔の山」。
まるで別の山のよう。
シャモニの街から見るモンブラン山群。ボソン氷河が落ちてきそう。
夕日に染まる山々。
とても穏やかで天気の良い1日が終わる。
エルブロンネル(Herbronner)
エギーユ・デュ・ミディから赤いテレキャビンに乗り、イタリア側の展望台、エルブロンネルへ向かいます。4人乗りのテレキャビンは3台が一組になって移動する。広大な雪原ヴァレ・ブランシュの上を、荒々しい山々の間を所々止まりながら40分かけてイタリア国境のエルブロンネルを目指します。
シャモニ側から見えるのは柔らかいモンブラン。その裏に回ると荒々しい姿に変わります。こちらから見るモンブランは「魔の山」という通称がぴったりです。山から流れてくる氷河には雪が積もり、巨大なひび割れが壮大なスケールで眼下に広がります。
キャビンはゆっくりと進んでいきます。
エルブロンネルに到着。
展望台からの眺め。シャモニから見るモンブランと全然違う。
ナイフのように鋭い、山々です。
展望台から雪原に降りてみました。 真夏でも雪は厚く積もり、周り中山に囲まれとても気持ちがいい。
広大な雪原のあちらこちらではクロスカントリースキーを楽しむ人たちもいる。
モンブランを眺めながら雪原を歩く。こんな普通の格好をした人もでもこんな風に歩くことができるのです。
ここにはイタリア国境。パスポートコントロールももうけられている。下の方にはイタリアのクールメイユールの街が見えるので、このままイタリアにいくこともできるのです。
この日は天気が丸一日崩れず、風も雲もないとても穏やかな日でした。この日が”とても運が良かったのだ”と言うことを次の日実感する事になるのです。
標高1035mのシャモニの街から、2つのロープウェイを乗り継いで一気に3842mの富士山より高いところまで僕たち観光客を引き上げてくれる。
ほかのアルプスリゾートと同じく、本当なら重装備で何時間もかけて登っていかないとお目にかかれない絶景が、軽装で、足の悪い人も老若男女だれでもが眺めることができるのです。
*小さな塔が見えるところが展望台です
シャモニの街からエギュイーユ・デュ・ミディ(Aiguille du Midi/ ミディ針峰)の山頂に作られた展望台まで標高差3000m近くを10分あまりで登ります。全体的に引っぱり上げられる感じのこのロープウェイはかなりスリリングです。
途中1000mほど上ったところのプラン・ド・エギュイーユで乗り換えます。このプラン・ド・エギュイーユ到着直前には無重力体験が待ってます。大きなゴンドラがふわっと浮かび揺れる。その瞬間、乗客みんなで声をあげる。この荒っぽさはスイスにはありません。
そしてエギュイーユ・デュ・ミディまで、これは「登る」というより「引っこ抜かれる」といった感覚なのです。特に山頂近くはまるでエレベータのように絶壁の岩壁に沿って、岩壁にぶつかるんじゃないかと思うくらいの距離で、ほとんど垂直にロープウェイは登ってゆくのです。
無事ロープウェイを降りるとそこは、北峯。ここにも展望台がありますが最も高い中央峰の頂上展望台へ更にエレベータで登ります。
標高3842m、ヨーロッパで一番高い場所にある展望台に到着です。
ここからはモンブランが間近に見られます。ここから眺めるモンブラン山群はとにかく雄大。
僕はこの時、ここ3842mで朝食をとりました。もちろんモンブランを眺めながら、用意していたパンやハムをかじった。
1817年、詩人バイロンはこう残しています。
「モンブランは山々の王である。岩の王座の上、雲の衣を纏い、雪の王冠を飾るのだ」
*シャモニで買った絵葉書
中央峰の展望台から北峰の展望台(ロープウェイの駅のあるところ)を眺める。遙か下の方にシャモニの街が見える。
バレ・ブランシュ(Vallée Blanche / 広大な雪原)
中央の切り立ったとても目立つ山はヨーロッパ3大北壁の一つ「グランド・ジョラス(Grandes jorasses 4208m)」
エギュイーユ・デュ・ミディはすぐ下に広がるバレ・ブランシュへの玄関口。冬はスキーヤーで、夏は雪山散歩を楽しむ人たちでにぎわいます。なので、エギュイーユ・デュ・ミディは僕のような軽装の観光客と重装のクライマー達とが混在する不思議な所となります。
モンブランからシャモニの方へ急勾配を流れ落ちるボソン氷河。
下から見ても上から見てもこれでどうしてシャモニの街が無事なのか不思議に思うくらい迫力のある氷河です。
シャモニ・モンブラン(Chamoix Mont-Blanc)は、その街の名前にもあるように、ヨーロッパ最高峰モンブラン(Mont-Blanc 白山 4807m)の麓の街。マッターホルンにツェルマット、アイガーにグリンデルワルトといったように、モンブランにはシャモニ。自動車は禁止で街も空気もとてもきれいだけど、そのための規制が厳しいスイスのアルプスリゾートに比べ、シャモニの街には車も乗り入れOK、統率されたスイスのそれに比べて”アルプスのリゾート”という気負いがあまり無いように思えました。ただちょっとそんな緩さが心地よかったりもします。
*Mont-Blanc 4807m
そしてそこに横たわるのは、壮大なアルプスの大自然そのもの。空を見上げるとそこには尖った山々「シャモニ針峰群」そして「モンブラン山群」がそびえます。ヨーロッパ最高峰モンブランからシャモニに向かってローリングストーンズのトレードマークの舌の様にボソン氷河が流れ落ちているのが間近に見える。こんな抗い用のない雄大な自然に囲まれて、気負いはなくとも、ここは間違いなく世界中から人が集まる一大アルプス・リゾートなのです。
*フランス国鉄のシャモニ駅舎です
バルマ広場
街の中心には1786年にモンブラン初登頂に成功したJ.バルマとM.パカールの銅像が立ちます。”魔の山”と恐れられていたモンブランを制した二人が指差す先にはもちろんモンブランの山頂があります。
二人の像の周辺は店々が並び、、、
その一角には”カジノ”があります。この辺もスイスのアルプスリゾートと少し趣が違うところ。
その後ろの緑の山の更に上からまるでナイフの刃先ようなシャモニ針峰群が顔を覗かせています。
さすが世界を魅了するアルプスリゾート。日中通りは人でごった返します。
サンミッシェル教会
シャモニの駅を出てほぼ一直線に進むと、このサン・ミッシェル教会にたどり着きます。
この教会のステンドグラスはとてもユニーク。教会入り口両脇にあるステンドグラスは、キリストと共に登山を描くもの、スキーを描くものの2枚がある。ここがリゾートである前に「魔の山」へのアルプス登山基地であることが伺えます。モンブラン登頂目指して命を落とした人が大勢いることを思うと、ちょっとリゾート気分が削がれて、ピリッとした緊張感が走ります。
この時僕は、ほぼ街の中心"HOTEL du MIDI"に宿を取った。部屋の窓からはモンブラン山群がよく見える。朝や夕方、いろいろな表情のモンブランを眺めることができました。
僕は比較的にホテルの”部屋運”が悪いので、感激の部屋でした。
テラスからはエギーユ・デュ・ミディもはっきり見える。
ツェルマットから見るマッターホルン、グリンデルワルトから見るアイガー、ラウターブルンネンから見るユングフラウと比べると、シャモニから見るモンブランはその山の形がこんもりしていてインパクトが小さく感じます。
夕日に染まるモンブラン山群
ここはヨーロッパ最高峰モンブランの街。
その魅力はこのあと存分に発揮されることになるのです。
パリ・リヨン駅から夜行に乗ってシャモニへ向かいます。
僕は夜行列車に乗るときにはいつも通路側の窓から顔を出して列車の出発を待ちます。列車に乗り込み自分のコンパートメントに荷物を入れたあと、毎回儀式のようにそうしてるんです。この出発までの駅や列車の雰囲気というのがとても好きなんです。
この時はリヨン行きの列車で、とりわけ僕の車両周辺は中学生位の修学旅行(?)の子供達が満載でとても騒々しかった。ホームには子供の親たちが見送りに来ていたのだけど、その大半の親たちがとても心配そうな表情を浮かべている。一方まるで対照的に、こちら(列車内)にいる大半の子供達は親たちの心配などお構いなしにはしゃぎまくっているのでした。でも中には親元を離れることがつらいのか泣いている子もごく少数いて、その親子を眺めていると修学旅行の出発がまるで映画のワンシーンのように見えるからパリという街は不思議です。
ヨーロッパの鉄道は日本のように発車のベルやアナウンスはありません。なんの前触れもなく列車はゆっくり動き出したかと思うと、ホームをぐんぐん置き去りにして、見送りに来ていた親たちはあっという間に小さく見えなくなってしまった。
パリ・リヨン駅の灯りがどんどん小さく、そしてパリの灯りも遠くなっていくと、やがて列車は街を抜け、街灯も街の明かりも見えない暗がりを走っていくのでした。
この日の僕のコンパートメントの同居人は修学旅行の子供が2人(外ではしゃいでほとんど中に入ってこない)と、たぶん80歳位のおじいさんが一人いた。眼鏡をかけた気さくなそのおじいさんは僕にとても人懐っこい笑顔で、フランス語で話しかけてきた。しかし、僕がフランス語を話せないことを知ると、一生懸命片言の英語で話そうとしてくれた。僕も負けじと片言(と言うのすらおこがましいレベル)のフランス語と英語でコミュニケーションをはかった。
パリに住んでいるそのおじいさんは一人で夜行に乗ってパリからシャモニのさらに向こうの街まで行くという。あの歳で僕と同じくらいの荷物を背負って夜行列車で旅行なんて、僕も老後はこうありたいと思う、しゃべりも行動もとても元気な人でした。その時、おじいさんがもともとポーランドの人で第2次世界大戦中にフランスに亡命してきたこと。明日はシャモニまでは一緒であることを教えてくれた。
おじいさんに僕自身についてもいくつかのことを説明したけれど、どこまで伝わっていたかは判らない。長いこと、でもゆっくりと会話をしたあとに、明日に備えてごとごと揺れるせまいベッドの上に入りました。コンパートメントの外では夜が更けるまで修学旅行の子供達の笑い声が響いていました。
次の朝起きると、列車はフランス・アルプスの山々にだいぶ近づいていました。天気は快晴。とてもさわやかな朝でした。風は涼しく、空気はきれいで、朝日がやさしい。今までの夜行列車での目覚めの中で一番、すがすがしい朝だったと思う。
*夜行列車の朝の通路の様子。赤ちゃん可愛い。
朝起きて窓から外を眺めている僕に、おじいさんは「これがモンブランの山々だよ」とひとつひとつの山の名前を教えてくれた。
そうこうしているうちに、ローカル線に乗り換えるサンジェルベの駅に到着。ホームの向かいにはシャモニへ向かうおもちゃのような電車が待っている。
乗り換えるのに荷物のまとめに苦戦していた僕は、すっかり出遅れておじいさんにも置いて行かれてしまった。お別れの挨拶したかったなあ。。。
と思ってホームに降りると、隣で出発を待っている電車の窓から身を乗り出し、おじいさんが僕をみつけて「こっちだ、こっちだ」と手招きして呼んでくれている!僕は列車に乗り込むとおじいさんの方へ満員の車両の中を進んでいく。するとおじいさんはちゃんと僕の席を確保していてくれた。しかも、山がよく見える側の席を、そして窓際席を。
そして電車が出発してモンブラン山群が更に近づくと、おじいさんはモンブランを取り巻く山々の名前をもう一度教えてくれた。おじいさんは友達が住んでいるシャモニのさらに奥の村へ毎年出かけるそうで、この大好きなモンブラン周辺の自然を、本当に一生懸命教えてくれた。このおじいさんは心の底からこの山々とこの辺の村が好きなんだな。
シャモニに近づき、僕は降りる準備をする。僕は初めてのシャモニへ、おじいさんはきっと何十回と来ているその先の村へ向かう。
僕は日本語、英語、フランス語で、これまでお世話になったお礼を気持ちに乗せて言いました(つまり、arigatou、thank you、merciを感謝のジェスチャー交えて丁寧に)。最後にフランス語の話せない僕が"Bon voyage!"と、英語の話せないおじいさんは"Good luck!"といって別れたのでした。
初めてのシャモニ=モンブラン到着。そのとても爽やかな朝以上のとても貴重な出来事と一緒に到着しました。
P.S. 振り返ると、語学を、少なくとも英語くらいは日常会話に不自由しないくらいに勉強しておかないと、いろいろな意味で損をするということを、毎度旅行する度に、いつも思い知らされます。で、毎回帰りの飛行機の中では"今年こそせめて英語をモノにするぞ"と意気込むのだけど、旅行から帰るとできず(いろいろ理由を付けて結局やらず)、また次の年の旅行で後悔する。そりゃ少しずつは上達するのだけど、ペラペラコミュニケーションするに至らず。。
これを結局10年以上繰り返してしまった。我ながら情けない。。。
cmn.hatenablog.com
cmn.hatenablog.com
シャモニ モンブラン(Chamonix Mont-Blanc)
ヨーロッパ最高峰”モンブラン”の麓に位置し、モンブランへの観光拠点と登山の基地として世界中から人が集まります。これからしばらく、シャモニとモンブラン山群の出来事を綴ります。
cmn.hatenablog.com
cmn.hatenablog.com
新たにローマのコインを手に入れました。といってもレプリカ(よくできた偽物)です。2000年前の本物も欲しいけど、触って観察して眺めて、多少乱雑にあつかっても気にする必要もないところがレプリカのいいところ。
このコインはハドリアヌス帝を象ったデュポンディウス(Dupondius)硬貨(のレプリカ)。
「デュポンディウス」はラテン語で「2ポンド」の意味。当時の硬貨としてはアウレス(金貨)、デナリウス(銀貨)、セステルティウス(青銅貨)、の次に位置するもので、帝政初期は1デュポンディウスで買えるのはパン2つ、または安いワイン1Lだったそうです。
貨幣価値としてはパン二つですが、共和政ローマから帝政ローマにかけて、ローマが一番多くの有能な人材を輩出したころに作られたものが多いので、いわゆる有名人が登場する、かつ手に入れやすいというのがこのデュポンディウス硬貨のいいところかもしれません(これはレプリカです)。
さてハドリアヌス帝について。
紀元117年から138年に在位した第14代ローマ皇帝。
ローマ世界(≒ヨーロッパ)がもっとも平和だったと言われる時代(96年から180年の間)、それを実現した有能な五人の皇帝、いわゆる「五賢帝」の一人にあたります。
五賢帝とはネルヴァ、トラヤヌス、「ハドリアヌス」、アントニヌス・ピウス、マルクスアウレリウスのことで、賢帝の世紀の真ん中にハドリアヌスがいます。
ハドリアヌス帝は20年ちょっとの治世の半分以上に当たる約12年間を首都ローマではなく帝国領土内を隅から隅まで各地の視察とインフラの修復・再建事業に費やしたという、ほかの皇帝たちとは違うスタイルの皇帝でした。皇帝の重要な責務である「安全保障」や「帝国内のインフラの整備」のためにハドリアヌスは現地を自分の目で見て徹底的に行ったのでした。数年ずつ2回、1年間を1回と合計3度の視察行には建築家、技術者を同行させて、さまざまなインフラや施設の修復や再建を精力的に行ないました。
ハドリアヌスの仕事の特徴のひとつは「自分の名前を残さない」こと。象徴的な例としてローマのパンテオンがあります。もともとパンテオンは紀元前27年に建てられました。当時初代皇帝アウグストゥスの右腕として、軍事とインフラ整備に活躍したアグリッパという人物によって今とは全然違う形で建設されます。ハドリアヌスは荒れてしまったパンテオンを当時の技術の粋を集めて全く違う現在まで残る設計で再建しました。紀元後125年ころ完成し2000年後の現代までその斬新な姿を維持しているパンテオンのファサードにはハドリアヌスではなく「アグリッパが建てた」と大きく刻まれています。ハドリアヌス自身設計にもかなり関わっていたと言いますが、パンテオンだけでなくハドリアヌスのほとんどの仕事にはハドリアヌスの自信の名前は記さずに、先人に敬意を払い先人の名前を刻み残しました。ローマ帝国の皇帝なのだけど日本の宮大工的な心意気を感じます。
他にハドリアヌスが手がけたもので、その名前がわかるものといえば、イギリスの北部に残る「ハドリアヌスの防壁」とローマの近郊に建てた自身の別荘「ヴィア・アドリアーナ」くらい。ハドリアヌスにとって自分の名前を建物に刻むことはさしたる意味はなかったのでしょう。
ハドリアヌスと同時代の人々は、快適な首都ローマでの生活を犠牲にして帝国の辺境まで隅々までを視察して回ったハドリアヌスを見て、「皇帝にはなりたくないもんだ」とぼやいたそうだけど、ハドリアヌス自身はローマで退屈な政治に明け暮れるより、いろいろな場所でいろいろなものを見ることや国のために建物やインフラの修復や再建に建築家として深く関わる時間は、きっと楽しくて仕方なかったんじゃないかと思う。そのことは視察に回った各地を再現したと言われるヴィラ・アドリアーナが証明しているような気がします。
壮大な旅行をしながら建築に深く、でも控えめに関わった謙虚な皇帝。僕はこの感性豊かなハドリアヌスという人物に共感し惹かれるのです。
そんなこともあってこのコインを見つけた時は、レプリカであっても迷わず買ってしまいました。
cmn.hatenablog.com
cmn.hatenablog.com