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旅行の記憶と何気ない日常を

ロミオとジュリエット小話

f:id:fukarinka:20210530175121j:plainヴェローナシェイクスピア⇨僕の住む街。

演劇とバラの花が有名というか、盛んというか。そういうところです。

 

最寄駅を出ると、地面にこんなのが埋まっています。

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シェイクスピアの「ロミオとジュリエット」のジュリエットがバルコニーで囁く有名なセリフですが、こんな感じで数メートルおきにシェイクスピアの戯曲のセリフが地面に埋まり、夜になるとこんな風に光ります。

 

リア王

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*夏の夜の夢

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じゃじゃ馬ならし

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これを辿っていくと、街の芸術劇場への道につながっていきます。

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かなり本格的な劇場で、有名な公演がよく行われていて、週末など駅からあのシェイクスピアの光のセリフをたどってこの芸術劇場へ向かう人の列ができるのをよく見かけます。

僕はここで「ロミオとジュリエット」を観劇しました。この時観たロミオとジュリエットはむちゃくちゃ現代風にアレンジされていて14世紀イタリア、ヴェローナは全く感じられなかったのだけど、目の前で今風の若者のロミオとジュリエットが登場し、モンタギュー家とキャピュレット家が争う中での悲恋の物語はまちがいなくシェイクスピアロミオとジュリエット。やはり生の舞台は迫力が違います。

シェイクスピアの戯曲「ロミオとジュリエット」はその誕生から約400年、オペラやミュージカル、映画やドラマ、さまざまな形で翻案されて、そして更には演劇でもこんな風にいろいろにアレンジして上演されている。そのバリエーションはその時々の演者や作家、演出家の感性によってさまざまに展開されてきたんだな。シェイクスピアの凄さをこのとき改めて思い知ったわけです。

 

シェイクスピアは僕にって意外と身近な存在で、毎日上のシェイクスピアのセリフを辿って家路を行くと、駅や劇場のポスターやら看板に「リア王」「マクベス」「オセロ」「ハムレット」の文字が踊る。実際に観に行くことは少ないけど、あの劇場の中壁を隔てた劇場の中で連日俳優さんや制作者のみなさんが熱く公演を行なっている。僕の街がそんな街空間であることはちょっと誇らしい。

 

また「芸術劇場」には演劇の舞台のほか大小コンサートホールがあり、コンサートやイベントが開かれる。また、公共の多目的スペースでは週末に無料のミニコンサートが開かれる。週末のミニコンサートには散歩がてらによく出かけ、時々大ホールコンサートを聴きに行ったり、稀にだけど演劇も見たり。恵まれた環境に

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5月には毎年、これまた近くの公園でバラ祭りが行われ、そのときにはここにはこんなバラの花が飾られたり。 

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 これは駅前のバラ

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 話はずいぶん逸れたけど、僕にとってシェイクスピアは意外と身近で、改めてシェイクスピアはすごいなというお話でした。

 

P.S. この2年間、芸術劇場の公演は自粛され、バラ祭りも中止。早く世の中が正常に戻りますように。

 

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ヴェローナ ジュリエッタの家

f:id:fukarinka:20210605141944j:plainカエサル=シーザー(Caesar)、ロメオ=ロミオ(Romeo)、ジュリエッタ=ジュリエット(Juliet)。

イタリア語、ラテン語が起源のもので、英語になって日本に入ってくるものが今までもいろいろありますが、シェイクスピアによる「ロミオとジュリエット」はイタリアでは「ロメオとジュリエッタ」となります。前置きが長くなりましたが、ヴェローナは「ロミオとジュリエット」の物語の舞台なのです。ヴェローナを舞台にした悲恋の物語がシェイクスピアによって戯曲の傑作となり、英語名「ロミオとジュリエット」として世界に広まった。

 

 そしてエルベ広場の程近く、ヴェローナには「ジュリエッタの家(Casa di Giulietta)」があります。

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ロミオとジュリエット(Romeo and Juliet)」

1595年頃初演といわれるシェイクスピアの戯曲は、13~14世紀にヴェローナを舞台に実際に起こった出来事に着想を得て書かれた物語をベースに戯曲化されました。

モンタギュー家(実際はモンテッチMontecchi家)の息子ロメオと、対立する政敵キャプレット家(実際はカプレティCapuleti家)の娘ジュリエッタ。二つの反目する家に生まれ、社会の混乱に翻弄されながら運命に争いながら最後は悲しくも成就する悲恋の物語は想像による産物。

シェイクスピアが戯曲化して大成功を収め、その後も世界各地で演劇、オペラ、ミュージカル、バレエ、テレビドラマ、映画として表現され続けている誰もが知る名作中の名作。。。。

さて、

この家はキャプレット家のジュリエッタが住んでいた家で「ジュリエッタの家」として多くの観光客、とくに「ロミオとジュリエット」を知る人が足を運びます。

建物の古めかしさといい、ツタのからみ具合といい、その雰囲気は十分。シェイクスピアの世界で「おお、ロミオ、ロミオ。あなたはどうしてロミオなの?」とつぶやいたバルコニーも実際にここにあるのです。そしてこの中庭にはジュリエッタの像が立っており、あの有名なジュリエッタがここで過ごしたことを示している。

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ヴェローナには他にも「ロメオとジュリエッタ」に関する史跡(?)が多く点在します。ロメオの家(個人宅のため見学不可)、ジュリエッタの墓・・ 

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ジュリエッタもロメオも想像上の人物で実在はしない。実はこのジュリエッタの家も、シェイクスピアにあやかってそれらしく再現して作ったものであるわけだし、そもそもシェイクスピアがイギリスで英語で発表したのは「ロミオとジュリエット」で。。。でも、そんなことはどうでもいいのです。

 

ロメオもジュリエッタもこの物語が好きな人にとっては間違いなく「いた」のであって、このバルコニーでジュリエッタが有名なセリフを呟き、ロメオがこのバルコニーによじ登ってジュリエッタに愛を囁いた、これも事実なのです。

 

以前、ロンドンを旅行した時、シャーロック・ホームズについて触れました。「世紀の名探偵」実在しない人物をあたかも実在したかのように街ぐるみで 。。。そうではないのですよ。

シャーロック・ホームズは実在した。ロンドンの221b Baker stに彼の下宿が残っている。ネッシーもいる。

それでいいんです。

 

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ヴェローナ 街を一望する

f:id:fukarinka:20210530100423j:plain円形闘技場の脇、わずかに残る三層部の横から小粋な小径、マッツィーニ通り(Via Mazzini)に入ります。闘技場のあるブラ広場とエルベ広場を結ぶ落ち着いた佇まいいい小径です。

街の景色は2000年前の円形闘技場の姿に負けないくらい、周囲の家並みがまた良い雰囲気を演出しています。

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 通りに入るとさっき円形闘技場の上から見えた塔が顔を出します。

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エルベ広場(Piazza delle Erbe)に到着です。

ヴェローナで最も古い広場。ある時期野菜(エルベ)市場が開かれていたそうで、この名前がついたと言いますが、この場所はもともと古代ローマ都市の時代には街の政治と経済の中心となる公共広場「フォロ(Foro)」でした。

 

そこに聳えるのが、ランベルティの塔(Torre dei Lamberti)。高さ84m、街のあちこちからその姿を拝むことができ、塔に登ればヴェローナの街を一望できます。

1172年に建設が始まりロマネスク様式で建設されました。

1403年に落雷で上部が破損、この時の再建で最上部にゴシック様式が混ざります。

そして1798年に時計がつけられ、現在のような姿が完成しました。

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 塔にのぼると、ヴェローナの美しい古い街並みを一望できます。

足元に見えるのはシニョーリ広場(Piazza dei Signori)。真ん中にダンテの像が立っているのが見えます。その昔は、エルベ広場とつながって中央広場(フォロ)を形成していました。

その向こうに見えるのは13世紀の教会、聖アナスタシア聖堂(Basilica di St-Anastasia)。

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逆方向、マッツィーニ通り、円形闘技場の方を眺めてみます。

イタリアの古い家並みの間から顔を出す、古代ローマの闘技場。僅かに残る3層部分を見ると、アーチ構造がとても綺麗です。完成当時の姿を見てみたい。

こういった街の姿を見るとイタリアってすごいところだ、と改めて思います。

その向こうにある立派な建物は、グラン・グァルディア宮殿(Palazzo della Gran Guardia)。17世紀に建設が始まった建物で宮殿と名前がついているけれど宮殿ではないらしい。今ではカンファレンススペースとして活用されているとか。

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 ヴェローナ、とてもいいところ。

次はイギリスとヴェローナで繰り広げられる物語の話を。

 

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ヴェローナ 古代ローマ円形闘技場

f:id:fukarinka:20210530175121j:plain円形闘技場 (Arena di Verona)

ヴェローナがローマ都市として栄えた紀元1世紀前半に作られた、25000人収容の円形闘技場。完成時期ははっきりした記録がないようだけど、ローマのコロッセオより数十年はやく完成したと言われています。この頃からローマ帝国各地に円形闘技場の建設が始まり、この円形闘技場はローマ都市には欠かせないインフラのひとつとなっていくのです。

各地の円形闘技場と同じくローマ帝政期には剣闘士同士の戦いや剣闘士と猛獣の戦いなどが催された一方で、他の街の闘技場で行われた初期のキリスト教徒弾圧に伴う公開処刑は、このヴェローナ円形闘技場では行われた記録がないそうです。

ローマが去った後、中世には放置荒廃したものの、16世紀になると再び活用され始めます。貴族の騎馬競技大会、大道芸の舞台、気球のイベントなど。。。

 

*野外オペラへ

18世紀にバレエの講演が行われたり、19世紀にはロッシーニヴェローナで開催された国際会議の余興として演奏するなど徐々に音楽堂としても利用されるようになります。

実際この円形闘技場古代ギリシアに始まる半円形劇場は、舞台の演者の息遣いが遠く最上階まで聞こえてくるほど音響効果が素晴らしいといいます。実際にギリシアや南フランスに残っている円形闘技場や半円形劇場い行った時、舞台で手を叩いたり、「わっ」と声を発してみるとその響き方がすごかった。

 また古代ローマの建造物は視覚的に壮大なオペラの舞台装置としても効果が素晴らしく、2000年の歴史と現代のセットを合わせた演出効果に気づいたオペラ関係者が、オペラと円形闘技場の組み合わせを企画して、1913年のヴェルディの生誕100周年に野外オペラ・フェスティバルをこの円形闘技場で初めて開催します。初演はヴェルディの「アイーダ」が選ばれました。

こうして古代円形闘技場での野外オペラは始まり、ヴェローナは夏の野外オペラの街として有名になります。

2度の世界大戦時に中断はあったものの、以降100年以上この野外オペラは現在まで続いているのです。

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*2000年後の闘技場で

僕がヴェローナに着いた時は第74回目のフェスティバルの期間真最中で、円形闘技場があるブラ広場と闘技場の中は、その準備が進められていました。下の写真、黒い舞台が作られオーケストラピットも見えます。アリーナに椅子が敷き詰められ、闘技場の観客席も途中まで椅子が置かれている。

その上の層は闘技場の席そのままで、2000年前と同じく、聴衆は石の上に腰掛けオペラを観るのです(僕は椅子よりこっちの方がいいな)。

丁度、このとき1913年の第一回の演目と同じヴェルディの「アイーダ」の準備中で、舞台にはオベリスクが建てられ、闘技場外にはスフィンクスの大道具など、アイーダの大小たくさんのセットが搬入をまっていた。普段のヴェローナは知らないけれど、なんだかこの世と思えないようなとても異質な空間に紛れ込んだような、そんな感じでした。

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円形闘技場は、オペラの劇場として使われるくらい全体的には保存状態がよく、さまざまなイベントにかれこれ2000年もの間使用され続ける、さすがローマのインフラです。

いまの外観は2層アーチですが、建設当時は3層でした。

ヴェローナで買った絵葉書

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建設から1000年その姿を保ちましたが、1117年にヴェローナを襲った大地震によって、一番外側の3層アーチの外壁のほとんどを失い、今のような2層アーチ構造っぽい外観になりました。

建設当時の3層構造の名残は下の写真の場所に一部残っています。全体の5%くらいの範囲ですが、残っています。

たしかに横から見ると地震には耐えられそうもない。。。

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古代ローマのインフラは外観的な美しさと耐久性が両立していて、各地にのこるローマの遺跡は単なる観光資源としてだけでなく、この円形闘技場のようにオペラ劇場として使われたり、現役の橋として使われたり、ローマ時代の道のをそのまま現在の道路に使用したりというものがとても多い。ローマ人の技術力と美的感覚の質の高さには憧れるばかりです。

 

ミラノへ列車で出会ったオペラ団はどこにいるのだろう。小さな街なので、フラッと再開できそうかと思ったけど、ちょうど野外オペラフェスの真っ最中ということで人が多くてちょっと無理でした。

円形闘技場の最上部、わずかに残された3層部分の向こうに、時計塔が見えます。

これからあそこへ行ってみます。 

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ヴェローナ 目次

f:id:fukarinka:20210530100423j:plainヴェネツィアとミラノのちょうど中間に位置するこの街は、シェイクスピアの「ロミオとジュリエット」の舞台として、また夏に古代ローマ円形闘技場で行われる野外オペラで知られ、その佇まいから”真珠のよう”と称えられています。

僕はミラノへ行く列車の中で出会ったオペラ集団につられて、もともと予定していなかったヴェローナを訪ねました。

ヴェローナには古代ローマの時代からポストゥミア街道の要衝として栄えた「古き良きイタリア」が感じられる落ち着いた街並みが広がっていました。

”真珠のような”小都市ヴェローナを綴ります。

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欧州列車の小話 車内オペラ

f:id:fukarinka:20210523160027j:plainここで綴るのはスイスのツェルマットからミラノへ列車で向かった時の貴重な思い出です。

 

*失意のツェルマット

ミラノへの出発の日、ツェルマットは朝から雲が立ちこめ、最後にマッターホルンの姿を見ることはできませんでした。結局ツェルマット3日間の滞在でマッターホルンの姿を見られたのは、1日目の夕方と2日目の午前中だけでした。とはいえ、スイスの周りに低気圧が3つも4つもあったあの天気予報で2度もあの山の姿が見られたのは奇跡的といえるかもしれません。

ブリークへの列車に乗り込みミラノへ出発です。ツェルマットからミラノへは、ローカル戦でツェルマットへの玄関口ブリークまで行き、そこで国際列車に乗り換えます。ツェルマットやブリークはイタリアとの国境近くにあるのでブリークを出るとすぐ、列車は長いトンネルに入り、シンプロン峠をくぐりイタリアへ抜けることになるのです。

ブリークの駅でミラノへの列車に乗り込みます。乗客もまばらだったので「最後に一目マッターホルンを」という希望かなえられず、失意に沈むにはちょうど良いとばかりに1等車のコンパートメントを独り占めしていました。

 

*なんだこの団体は?

そう、ミラノまでは一人静かに過ごせると思っていたその時、大勢の人間がどやどやとこの車両に乗り込んできた。なんか騒々しい。そして僕がひとり占領していたコンパートメントにも男女織り交ぜ、大荷物を抱えたやたら陽気な5人が入ってきた。それでもこの日静かに過ごしたかった僕は、「しようがないなあ…」と思いつつ、窓の外に目をやって気を紛らわした。こういう時言葉がわからないというのは助かります。どんなにワイワイ喋ろうと言葉わからないと全然気にならない。と、思っていたら、彼らはなにやら仲間大勢で列車に乗り込んだようで、あっちもこっちもコンパートメントはその団体で埋まり、人も出たり入ったりなんだか落ち着かない。まるで子供達の修学旅行みたいだ。

 

*酒盛り始まる

彼らはクーラーボックス持参で、中からワインの小瓶を取り出すと一人一人に配りだした。内心「ここで酒盛りかよ…かんべんしてよ…」と思った矢先、僕にもワインを差し出してきた。何度か断ったのだけど、向こうも負けずに勧めてくる。最初は静かに過ごしたいと思っていたのだけど、もともと大勢でわいわいやるのが好きなたちなのもあって、差し出されたワインを断りきれず、ついに受け取ってしまった。

みんなで乾杯して自己紹介が始まった。彼らのうち一人だけ片言の英語を喋る意外はみんなドイツ語を話す。"日本から来た"ことさえ伝えるのが大変だったけど、身振り手振りで何とかコミュニケーションをとってみました。

とにかくめちゃくちゃ陽気なこの集団、聞いてみるとブリークに住むスイス人だそうな。そして彼らはオペラ劇団のグループで、これからベローナへ公演のために向かうのだという。そう、ベローナと言えば古代ローマ円形闘技場の遺跡をそのまま野外劇場としてつかう、オペラの祭典が有名。もしかしたら、彼らがあの舞台でオペラを演じるのかもしれない。


さて、そんなこんなしているうちに、ちょうどお昼時になりました。別のクーラーボックスが登場して中からパンやハムや野菜が出てきて、その場でそれらをはさんだサンドイッチを振る舞ってくれた。その日は節約しようと"昼抜き"を覚悟していたので、空腹に任せてばくばっく豪快に食べていたら、「これも食え、あれも食え」ととにかくいろいろ出してくれて、たぶん彼らの分まで食べてしまったんだろうな、しかもかなり、と今思う。あの辺の食材はシンプルで本当に美味しい。チーズも野菜もパンもそのまんまでも美味しい。

 

*車内でオペラ始まる
ワインと食事、お腹が満足したら次は歌。

やたら陽気なオペラ団、彼らドイツ語でなにやら陽気に話しては時々歌が混じる。その歌は、オペラ歌手の豊富な声量と表現力、間近で聞くと大迫力だった。その列車のその車両は彼らに占領されたらしく、あっちこっちのコンパートメントから笑い声やら歌声やらが響き、やたらにぎやかだった。

うちのコンパートメントも"それじゃあみんなで歌おう!"と言うことになった。"マコトはバスはできるか?"と聞かれたので(その時ちょうどバスがほかのコンパートメントにいたらしく)、すかさず低い声で"ア~"とそれっぽく発声すると、"よし!マコトはバスだ"とパートを振り分けられた。僕には歌詞のないひたすら"ドゥビドゥビ…・・"のパートを与えられた。急遽参加の僕のために単純な曲を用意してくれて、僕のパートは旋律も歌詞(ドゥビ・・・)も単純だったのですぐ覚えられた。事前のチェックで全員スタンバイOKとなり、"1,2,3"のカウントに続き"ドゥビドゥビ…・・"と始まった。僕のパートはともかく、その他はとてもきれいなハーモニーで歌うのをやめて聞きいってしまいたかった。そのうち他のコンパートメントからも別のメンバーが飛び入りで参加したり、この曲を何回かみんなで歌って過ごした。その後も何曲か歌を聴かせてもらって、ブリークからミラノまでの3時間あまり、本当にあっという間の時間でした。

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*お別れ

そしてミラノに近付いた頃、みんなで最後の最後まで”マコト”の名前入りでお別れの歌を歌ってくれた。後で別のコンパートメントから歌に飛び入りしたメンバーは英語が話せたので、彼に「たくさんのサンドイッチと美しい歌声と最高に楽しい時間をありがとう!」と僕の別れの挨拶とお礼を通訳してもらい名残惜しみつつ僕はコンパートメントを離れ列車を降りた。列車が出発して彼らの姿が見えなくなるまで陽気な歌声が響き渡っていました。


このミラノへの列車の時間は僕の旅行経験の中でも最も楽しかった移動の時間でした(そして唯一の緊張なしのイタリア入国)。僕はこのミラノ滞在のあと、予定してなかった彼らの目的地ベローナへ行くことに決めた。

 

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ミラノ小話 メモの価値

f:id:fukarinka:20210524012731j:plain「メモ書き」が一枚1億円の価値をもち、「メモ書き」の展覧会が開かれると大勢の人がそれを見るために集まってくる。
絵でも彫刻でもない、言ってみれば「ただのメモ」に大勢の人々が引き寄せられるのです。そう「ただのメモ」はレオナルド・ダ・ヴィンチが書くことにより「ただのメモ」では済まなくなる。単なる手稿で美術館を埋め尽くし、大勢の人を集めることのできる人類で唯一の人ではないだろうか?

 

ミラノの最後に、このレオナルドの手稿に触れておきたいと思います。

レオナルドは生涯に多くの手稿を書き残しています。その2/3は失われたとも言われていますが、現在までに残された8000ページに及ぶメモ書きが、後世に9つに分類された形で、各地で保管されているのです。9つそれぞれに(勝手に)名前が付けられており、各地の図書館や博物館、美術館で保管されています。

 (Ⅰ)アトランティコ手稿:アンブロジアーナ図書館, ミラノ

 (Ⅱ)トリヴルツィオ手稿:トリヴルツィアーナ図書館, ミラノ

 (Ⅲ)鳥の飛翔に関する手稿:トリノ王立図書館, トリノ

 (Ⅳ-A〜M)パリ手稿:フランス学士院図書館, パリ

 (Ⅴ)解剖手稿, ウィンザー紙葉:ウィンザー王室図書館, ウィンザー

 (Ⅵ)アランデル手稿:大英博物館, ロンドン

 (Ⅶ)フォスター手稿:ヴィクトリア&アルバート美術館, ロンドン

 (Ⅷ)マドリッド手稿:マドリッド国立図書館, マドリッド

 (Ⅸ)レスター手稿:個人所蔵(ビル・ゲイツ氏)

といった具合。

万能の人と呼ばれたレオナルドの手稿は、物理、天文、光学、土木、建築、兵器、都市計画、鳥の飛び方、飛行機械、解剖学、地殻、ラテン語、語彙、絵画理論等々あらゆるジャンルに及び、1枚の紙にイラストや図を交え、紙面にびっしりと細かーい文字、しかも左右反転した鏡文字で埋め尽くされる。中世、人々の世界は宇宙の仕組みから何からキリスト教が作り上げており、それに真っ向(もちろん科学で)反論するような、当時としてはとても刺激的な内容となっている。

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ここで触れたいのは、唯一個人所蔵となっていて、現在マイクロソフトを創業したビル・ゲイツ氏所蔵の「レスター手稿」と呼ばれる18紙葉36面72頁のもの。全体の分類の中では最も小規模だけど、1505, 7-8年に、レオナルドの第2期ミラノ滞在時に大部分が書かれており、天文、地殻、河川、湖水、海洋といった分野のそれまで研究してきたことの総まとめのような内容となっている点で重要な手稿です。

 

そして、このミラノで大半が書かれたレスター手稿は、個人所蔵であることから年に一度どこかの国で一般公開するという約束がある。そして2005年にレスター手稿は日本にやってきた。僕は日本でこのミラノで書かれたレオナルドの肉筆メモと面会しました。


完成させて人々に見せるための絵画や彫刻とはちがった、メモであるがこその、生の筆跡、言葉、文字、そして自分のための図や絵の数々。僕はこの時、そこから500年前に天才と呼ばれた人の息吹のようなものを感じ取りたくて、「レスター手稿展」に足を運んだのでした。

そして実物を間近でみた印象は、これまで見てきたレオナルドの「名画」からはうかがい知れない、レオナルドの人間性のようなものを感じられた気がしたわけです。そのゴマ粒のように小さな字と精密な描写の図や絵からは「科学者」レオナルドの繊細さを、しかし微妙に曲がる行、時折不規則に加えられるメモからは細かいことは気にしない天才の豪胆さが感じられます。それとやはりというか何というかメモ書きなんだけど、芸術作品でした。

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レスター手稿を1頁ずつじっくり観察して、すべて見終わってからまず最初に思ったのは、この人の成したことはすごいけど、もし同じ時代に生きて近所に住んでたとしても友達にはなれそうもない、ということ。いまの世でも「天才」と呼ばれる人には変わり者が多い。レオナルドも相当の筋金入りの変わりものだったと言われるけれど、それがこれらの手稿からもそのことが伝わってきたような気がしました。これら手稿は「モナリザ」や「最後の晩餐」からは伝わってこない、人間レオナルドが見えたような気がしたのです。

レスター手稿の展示は、展示による手稿へのダメージを最小限にするために、照明を徹底的に抑えていました。薄暗い部屋にならぶ18のガラスケース。そこにこれまた薄暗い照明、しかも一定周期でさらに暗くしてもとにもどす、という照明にほんのり照らされた手稿がガラスケースひとつに一枚ずつ入っているという厳重なもの。

手稿の中身の価値もさることながら、現代に至るその扱いは「万能の人」レオナルド・ダ・ヴィンチという人物の凄まじさを感じずにはいられません。

でも一方で、ガラス越しとはいえ、そのメモを間近で見ると、凄まじさと同時にお茶目さも感じ取れたりして、なんというか親近感のようなものが湧いてくる。多分友達にはなれないけど、遥か雲のさらにその上の人物がちょっと身近になったような気がしてちょっと嬉しい。

 

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