cafe mare nostrum

旅行の記憶と何気ない日常を

ローマとミケランジェロ

ミケランジェロが初めてローマを訪れたのは1496年の初夏、22歳の時でした。ここで目にした古代ローマの彫刻や建築は、以前フィレンツェのメディチ家の庭園で得たものと同じ感動をミケランジェロに再び呼び起こしてくれたといいます。 そして生涯にわたり、ミケランジェロはローマに多くの作品を残すこととなるのです。ミケランジェロにとってのローマは己を表現する最高の舞台であったと同時に、パトロンたちとの壮絶な戦いと苦悩の場でもありました。

 

◾️ピエタ(1497-1500年) 25歳 サンピエトロ大聖堂

1497年にフランス人枢機卿から依頼を受け、この「ピエタ」を製作。
ミケランジェロの言い値に「高すぎる」と文句をつける依頼主の枢機卿、しかし当時まだ二十代の若造ミケランジェロは 平然とこう言い返した。
「得をするのはあなたです」

ミケランジェロは生涯唯一、この作品にだけに己のサインを入れました。それは、ローマの人々がこの「ピエタ」のあまりの完成度の高さに、25歳の若造が創ったことを疑ったためだったといいます。

ミケランジェロのピエタはサンピエトロ寺院の数ある彫刻の中、唯一ガラスケースに守られており、それはその存在の重要さを物語っています。豪華絢爛なバロック美術があふれるサンピエトロ寺院の中、このピエタがある空間だけは違った空気が漂っています。

ピエタ完成後、ミケランジェロはフィレンツェに戻り「ダヴィデ」製作に取り掛かるのでした。

 

◾️モーゼ(1505-1545) 30歳 サン・ピエトロ・イン・ヴィンコリ聖堂

教皇ユリウス2世がシスティーナ礼拝堂の天井画より先に、ミケランジェロに最初に依頼したのが自身の墓廟でした。彫刻家ミケランジェロはたくさんの彫刻で埋め尽くされるこの墓廟の制作に狂喜乱舞し大理石の選定に数ヶ月をかける入れ込み様でした。

聖ペテロがつながれたといわれる鎖が祀られたこの寺院に、ミケランジェロが手がけたユリウス2世の墓廟があるのですが、当初ミケランジェロの頭の中にあった姿は、現在見られるよりもっと壮大なものでした。大理石を買い付け、製作に取り掛かるためにローマに戻ったミケランジェロを待っていたのは、ユリウス2世の心変わりでした。

この時ユリウス2世はミケランジェロにシスティーナ礼拝堂の天井画を描かせると決めていたのでした。

サン・ピエトロ・イン・ヴィンコリ聖堂のユリウス2世墓廟は、ユリウス2世の死後に製作が再開され1545年、実に40年の時を経て、最初の構想からはかなり縮小した形で完成された。最初の計画通りなされたのは、この力強い「モーゼ」の像のみといわれています。

 

Capella Sistina/ システィーナ礼拝堂

ミケランジェロはこのシスティーナ礼拝堂の天井画を描きあげることで、「神のごときミケランジェロ」と賞賛される。でも天井画を描くまでにはパトロンである教皇ユリウス2世との戦いが、彫刻家である自分が絵を描くことの葛藤との戦いがありました。結局ユリウス2世の強硬な意志に逆らいきれず天井画を描くことになり、あの壮大な作品が生まれるのです。
ミケランジェロがたった一人で作り上げた、システィーナ礼拝堂のあの壮大な空間を訪れる者は、「神のごとき」の言葉の意味を知ることとなるのです。

ゲーテはここを訪れた時にこんな言葉を残したといいます。
「一人の人間が何をなしうるか知りたければ、システィーナを訪れればよい」

 

◾️天地創造(1508-1512年)  33~37歳 

ユリウス2世が最初にミケランジェロに描かせたのはこの天井画「天地創造」。旧約聖書の「創世記」から「天地創造」はじめ九つの場面を中心に、預言者や巫女、キリストの祖先などの300人の群像が描かれます。
制作当時は礼拝堂の天井を覆う足場が組まれ、ミケランジェロは体を弓なりにそらせ、絵の具を顔にしたたらせながら描くことになり、肉体的にも精神的にもかなりの苦痛を伴う作業となりました。

 

ある日短気なユリウス2世は足場に登り、ミケランジェロに詰め寄った。
「いったいいつになったら完成するのか?!」
「私が完成したと言った時です。」
「今すぐ完成させないと、ここから突き落とすぞ!」
「あなたにそんなことはできるわけがない。」


13x36mの史上最大の天井画はたった一人で4年半の歳月をかけて描ききり、天地創造が完成をみた翌年、ユリウス2世はこの世を去りました。

天地創造の中でもっともドラマティックな場面が、この「アダムの創造」。
力強い神が天使を従え、アダムに命を吹き込もうとする瞬間。

 

◾️最後の審判(1536-41年)  61~66歳 

教皇クレメンス7世、パウルス3世の依頼で、ミケランジェロは再びシスティーナ礼拝堂で絵筆を執ることになります。
システィーナ礼拝堂正面祭壇画に描いた新約聖書の「最後の審判」の場面。13.7x12.2mの壁面に400人もの人物を描き、この世の終焉を表現しました。

立派な肉体をもったキリストが中央で右手を振り上げ、今にも審判を下そうとする瞬間。天国に行く者、地獄に落ち絶望する者、様々な人間のドラマが克明に描かれています。

「もっとも美しいのは神の姿に似せた人間の体」を貫いたミケランジェロは「最後の審判」の人物もほとんどが「裸体」で表現されました。この裸体の洪水、聖人までが裸体で表現された「最後の審判」はキリスト教への冒涜に当たるとして、作品の完成度とは裏腹に「問題作」とされ、何度も破壊の危機を迎えます。その都度、芸術家たちが教会への説得にまわり「最後の審判」守られました。しかし多くの部分に加筆が行われ、裸体の多くに腰布や衣服がつけられることになるのでした。

完成から500年、ろうそくのすすで覆われたシスティーナ礼拝堂のミケランジェロは、色彩を失っていました。20世紀最大の文化事業としてシスティーナ礼拝堂の修復が始められたのは1981年。壁面を覆う汚れを落とし、後世の余計な加筆を取り除く気の遠くなるような修復作業が行われます。その過程ではミケランジェロの絵筆の豚毛がみつかったり、乾ききらない漆喰によろけてついたミケランジェロの手のあとが見つかったりと、予期せぬ発見もあったといいます。
ミケランジェロが一人で描ききった時間より長い、13年の歳月をかけた修復がおわり、現在のシスティーナ礼拝堂は鮮やかな色彩にあふれた完成当時に近いミケランジェロを見ることができる。

実際にシスティーナを訪れると、力強い人間群像と色彩の洪水に、ただその世界に圧倒されてしまいます。そしてそこから伝わる命の力のようなものが、500年もの時をわすれてしまうのです。

 

◾️サン・ピエトロ大聖堂とクーポラ(1546-1564年)71-88歳

中断同然だったらサン・ピエトロ大聖堂の改築工事をミケランジェロが引き受けたのは71歳(1546年)、それから17年間の間、ミケランジェロは無給で大聖堂の改築を推し進めたのでした。そして工事がまだクーポラに差し掛かる前にミケランジェロはこの世を去ります。

現在見られるサンピエトロ寺院のクーポラは、もともとのブラマンテによる設計ではパンテオンのような半球形の屋根でしたが、ミケランジェロが大クーポラに設計しなおし工事を引き継いだ建築家たちはミケランジェロのプランを忠実に再現したと言います(諸説あり)。


このほかにも建築家ミケランジェロとして、

幾何学模様の床が斬新なカンピドリオ広場、

古代ローマのディオクレティアヌス浴場を教会に改装した、こちらも唯一無二のサンタ・マリア・デリ・アンジェリ教会(写真無)などを手がける。

また服飾デザイナーとしてヴァチカンの衛兵の制服デザインを手がけています。

 

◾️ローマにて生涯を終える

1564年に88歳の生涯をローマで終えたミケランジェロ。遺言によって亡骸は、壮絶な「戦いの場」ローマから、彫刻家としての自分を育ててくれた愛するフィレンツェのサンタクローチェ教会に運ばれ、埋葬されました。

 

 

◾️ローマとミケランジェロ

彫刻家であり続けたかったミケランジェロと、それを許さなかった歴代のローマ教皇たち。ミケランジェロは歴代教皇たちによって、その類稀な才能をあらゆる方面に振り向けられました。その結果、ミケランジェロの思いとは逆行する形で、ここで紹介したような様々な分野に及ぶ人類の至宝と呼ぶべき作品の数々がローマで生まれ、現代の僕たちが「神の如き」その恩恵に浸ることができるわけです。

しかし、残された作品のすばらしさとは裏腹にローマでのミケランジェロは、その苦悩から開放されることは無かったようです。彫刻家として最高の仕事にするつもりだったユリウス2世の墓廟は中断、規模も縮小させられ、代わりに与えられた仕事はシスティーナ礼拝堂の天井画。心身ともに大きな苦痛を感じながら完成させたこの仕事(=絵)によって、「神のごとき」の称号を人々から受けることになるのですが、ミケランジェロはこの賞賛・称号には決して納得はしていなかったでしょう。

 

1534年「最後の審判」を製作するためフィレンツェから居をローマへ移し、1564年に88歳で命尽きるまでの約30年間をローマですごしたミケランジェロ。様々な戦いと葛藤の最後に、サン・ピエトロ大聖堂の改築という建築家の仕事を無償で引き受けたことは一見すると「ローマへの恩返しのため」という見方もできます。

しかし、彫刻家としてのミケランジェロと彫刻以外の仕事をさせてきた歴代ローマ教皇とのバトルや、遺言でフィレンツェに埋葬することを記したことなどを思うと違う側面が垣間見えてくるような気がします。そもそも天才であり職人気質のミケランジェロが老齢となったからといって、そんな潮らしい老人になれるのだろうか?

この仕事を「引き受けた」のはローマへの恩返しだったかもしれない。「無報酬」としたのは、彫刻家である自分に最後の最後まで彫刻以外の仕事をやらせようとするヴァチカンへの抗議だったのではないだろうか、と。

 

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