cafe mare nostrum

旅行の記憶と何気ない日常を

コロッセオ1 なぜコロッセオか

イタリア語:コロッセオ(Colosseo),ラテン語 :コロッセウム / Colosseum)。

学生時代の歴史の教科書に出てくる2000年前の、5万人を収容する円形闘技場です。などという説明など不要な、おそらく世界でもっとも有名な古代建築の一つ。古代ローマのことは知らなくてもこのコロッセオのことは知っているという人も大勢いると思います。ここではラテン語の「コロッセウム」ではなく、僕が子供の頃に知った名前、イタリア語の「コロッセオ」と呼ぶことにします。

*イタリアで買った絵葉書

◾️なぜコロッセオと呼ばれるのか

コロッセオ(コロッセウム)」とは本名ではありません。今は失われていますが、かつてこのすぐ近くにあった「コロッスス(皇帝ネロの巨大黄金像)」にちなんだ通称で、正式名は「フラヴィウス円形闘技場(Amphitheatrum Flavium)」と言います。コロッセオはその本名が示すようにフラヴィウス一門(Flavius)の皇帝たちにより建設されました。

フラヴィウス最初の皇帝ヴェスパシアヌス(TITVS FLAVIVS CAESAR VESPASIANVS AVGVSTVS)によってA.D.72年に着工され、その後8年の歳月を経てA.D.80年にその長男ティトゥス(TITVS FLAVIVS CAESAR VESPASIANVS AVGVSTVS)帝により完成し落成式が行われます。その後、次男ドミティアヌス(TITVS FLAVIVS CAESAR DOMITIANVS AVGVSTVS)帝が最上階の席を整備して日除けの天幕設備を追加する拡張工事を行いました。

*ローマ文明博物館の模型

◾️なぜコロッセオだったのか

皇帝ヴェスパシアヌスはなぜ、コロッセオを建てたのでしょう。。。

コロッセオが着工される以前のローマは大きく混乱していました。暴君ネロの治世にローマの大半が焼ける大火事(ローマの大火)に見舞われ、キリスト教徒の大虐殺といった不幸な出来事が続き、ネロが自殺した後は1年で3人の皇帝が入れ替わり暗殺されるというローマにとって暗く不安定な時期が続きます。そして、この混乱を納めたのが皇帝ヴェスパシアヌスでした。

ヴェスパシアヌスという人はとても真面目な田舎びと。顔は「膨らまなかったパン」と表現される冴えない風貌、立ち居振る舞いも洗練とは程遠かったと言われる。でもその代わり人に好かれるユーモア溢れる人物だったとか。

「初代皇帝アウグストゥス(〜クラウディウス)のような統治を行う」とヴェスパアジアヌスは市民に約束します。そして皇帝と市民が出会える場所、皇帝と市民が一体になれる場所として建設されたのがコロッセオで、その場所は市民から不評だった暴君ネロの黄金宮殿(ドムス・アウレア/Domus Aurea)の人工池の跡地と決まった。

重要な都市機能の一部として、市民の娯楽のため、市民と皇帝が身近に出会うため、コロッセオは建設され、5万人の収容力とそのデザインはこれら目的を果たすために必要十分なものでした。このことはコロッセオの中に実際に入ると、その理由を実感できます。ヴェスパシアヌスが作るべきはこの「コロッセオ」一択だったのでした。

◾️デザインの力

ひとことで言えば「5万人がコンパクトに集まれる場所」それがコロッセオ

コロッセオは程よいフィールドサイズと観客席の角度設定によってか、競技フィールドに立つと、観客との距離がとても近く感じます。どこの席からも皇帝の姿がよく見えただろうし、剣闘士の試合への熱狂も全体に伝わり安く、一体感が生まれやすい空間だっただろう。コロッセオに実際に入ると、そこにヴェスパシアヌスの意図を感じることができるのです。ヴェスパシアヌスの掲げた目的のためには、ギリシア伝統の半円形劇場ではダメ、チルコマッシモのような大競技場は大きすぎ、首都ローマにあってこの収容人数、このサイズ、この形である必要があったのでした。

混乱の時代を経て、時代が首都ローマに求めたコロッセオは、生まれるべくして生まれたのでした。

 

ヴェスパシアヌスは皇帝になった時すでに60歳。コロッセオの完成を見ぬまま病死してしまいます。先帝の意思は長男ティトゥスが引き継ぎ、着工から9年後にフラヴィウス円形闘技場は完成するのでした。A.D.80年にティトゥス帝が行った盛大な落成式典は100日に及び、この間9000頭の猛獣が殺され、2000人の剣闘士が死んだといわれています。これほどの命の犠牲をもって、というのはどうかと思いますが、コロッセオはそのヴェスパシアヌスの意図した役割を十二分に果たしていきます。

 

次回は「建物」コロッセオを。

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コロッセオ0 圧倒される

ある夏の暑い日、僕が初めてローマを訪れたとき、まず最初にカンピドリオの丘に登りました。麓から、美しい階段のような坂道「コルドナータ(Cordonata)」を登って、ミケランジェロがデザインした広場に入り、さらにルネサンスの建物の間を抜けた時、視界がパーっと開けて、丘の上から眼下に広がるフォロ・ロマーノの壮大な姿が広がったんです。これが僕が見た最初の古代ローマの姿で、この時すでに、僕はローマの街の虜になってしまった。でも、そのまま左の方へ降りて大通りで見た光景は、フォロ・ロマーノのそれを遥かに上回るものでした。

僕が見たのは「大通りの向こうにコロッセオ」。この景色が目に入った瞬間、頭に浮かんだ言葉は「なんだ⁉︎コレは⁉︎」でした。こんな言葉しか浮かばない、そんな状態です。もちろんそれがコロッセオであることはわかったのですが、それでもやっぱ頭をよぎったのは「なんだ⁉︎これは⁉︎」で、その衝撃たるやフォロ・ロマーノを軽く超えるものだったのです。

ローマでの街歩きは、あちこちで、大小織り交ぜ様々な古代ローマの遺跡が突然現れるという驚きの連続です。そんなローマにあっても、特大級の衝撃を受けるのがこのコロッセオ(コロッセウム)です。一部をのぞいてフォロ・ロマーノや皇帝たちのフォロといった貴重な遺跡群はほとんどが崩れてしまって原型を残さないものがほとんどなのに対して、コロッセオは一部ではあっても当時の姿を留めており、その巨大さと美しさとその佇まいに僕は圧倒されたのでした。

そして、この大通りはフォリ・インペリアーリ(Fori Imperiali)通りと言い、ムッソリーニコロッセオをバックに軍事パレードをしたいがために作った道です。ムッソリーニはこの絵面を得るために、貴重な「皇帝たちのフォロ」の遺跡をつぶしこの道を作りました。このために「カエサルのフォロ」や「アウグストゥスのフォロ」などの結構な部分を潰されてしまったのは全くもって許せない。だけどこの道の向こうにコロッセオがそびえる見事な様は確かにスゴイ。ムッソリーニの気持ちもまあ、わかる。ちょっと複雑な気分になります。

 

ここに立つと人も車も古代ローマの世界に吸い込まれていくように見えます。

そして吸い込まれるように自分もコロッセオに近づいていく。その構造がよく見えてくる。そしてその巨大さにさらに衝撃を受けるのです。

無数のアーチがリズムよく並び、それが3層重なっている。さらにその上の4層目はこの建物を落ち着かせるような視覚効果となって外観の安定構成している。この辺のローマ人の美意識も僕がローマが好きな大きな理由。そして近くで見るコロッセオは僕の想像を嘲笑うように、遥かに巨大。ただただ圧倒されます。

 

そして、ぐるっと一周コロッセオを巡ってみると、2000年の時を経た痛々しい姿が現れます。外側にそって歩いていくと、途中で威風堂々とした外観が途切れます。そこからは始まる、崩れてふた回りほど小さくなった反対側の姿は、まるで自分の内臓を晒すがごとくの痛々しいものです。

でもコロッセオのその威容は、崩れてしまってもなお衰えることはありません。崩れた部分も覆い隠すようなオーラを感じます。完成してから2000年もの時間が過ぎているにも関わらず。。

この時、コロッセオの姿に圧倒された僕は、ただ呆然と円弧を描く高い高い外壁を見上げるばかりでした。

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コロッセオ 目次

学校で歴史の教科書に必ず載っていた古代ローマの遺跡。だれもが知っているであろう有名な遺跡は、巨大で、美しく、そしてローマの技術の粋を集めた逸品でした。コロッセオを初めて見た時の衝撃から、コロッセオにまつわる様々を綴っていきます。

 

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小話 感覚する構造展

仕事が一区切りしたので、近所の美術館(寺田倉庫)で前から見たかった企画展を見に行ってきました(先日のゴッホとほぼ同じ場所で以前、建築模型展を見に来たエリア)。

その名も「感覚する構造」。

あまり興味のない人には何を言ってるやらわからないと思います。

なので、なにやらおかしなことを書いているように思われるかもしれませんが、ご容赦ください。

建築の構造に関する、構造美に関する展覧会。その美しい建築の構造模型を集めた展覧会です。

展示はガウディの逆さ吊り構造実験の解説からはじまります。そして下には、ガウディが見つけた構造、サグラダファミリア付属学校の波打つ屋根と同じ構造を持つ、「ソチミルコのレストラン」の構造模型。この屋根の構造、1本ではただの真っ直ぐな棒なのに、組み合わせることで滑らかに波打つ屋根の形となる。この時点でノックアウトです。

せんだいメディアテークの構想段階の構造模型。これもサグラダファミリアの柱の構造から着想をえているように思えます。

構想メモ。こういうのもたまりません。まだ形が生まれる前の頭の中のカオスからだんだんアイディアやカタチが固まっていく。それを代弁するのがこんなラフなメモなんです。



こちらは東海大学建築学科の学生がつくった(?)パンテオンの模型。ファサードにちゃんとラテン語の文字が刻まれてるところがニクイ。

パンテオンのドームを輪切りにしています。本物は本当に美しい建物なんです。その模型を作ったりできるって、こんな大学生活は楽しいだろうなあ、と思いながら眺めてました。

こちらは多摩美術大学図書館の模型。幾重にも折り重なるアーチが、これまたたまりません。

フィレンツェの新駅のコンペ作品。ホームの屋根を支える構造が面白いし素晴らしいんだけど、僕はフィレンツェの駅はSanta Maria Novellaみたいな素朴な感じがであってほしいなあ、なんて思いながらまじまじと眺めてしまいました。

竹や木を使った構造。やっぱり木というのは落ち着きます。

格子構造のリズムというのは、自然の曲線と対極にあるのだけど、同じくらいの安心感を感じるのです。安定感からくる安心かな。。。光が専門の僕は、こんな構造みてしまうと、これをものすごく小さくしたらどんな分光になるだろうという脱線もします。

構造にまつわる模型がたくさんある中で、代々木体育館が!

1964年東京オリンピックに合わせて建設された建築家丹下健三による「これぞ構造美」叫びたくなる逸品。いつ、何度見ても魅了されてしまいます。。。

なんかとても満足な展示でした。

 

1階が「感覚する構造」展で同時開催2階では「心のレンズ」と題した、現代アートの展示会が。現代アートは直感的に心に響くかどうか。この「心のレンズ」という展覧会の名前は言い得て妙。

階段あがって最初にピカソの小さなリトグラフからスタート。これは撮影禁止のため、写真はないけど、こんなちょっとした作品であってもその絵からはピカソのオーラが感じられる、そんな名品でした。

その先は、近代アート作品が

並ぶ中、

 

なんだかわからないけど、脳みそにズバッときたのがこの作品。なんだろうこれは。

古い椅子がキューブのように、規則的にでもあっち向いたりこっち向いたり、宙吊りに。なぜこれに惹かれるのか理由はよくわからない。でも、何か不思議な魅力を感じて、何度もぐるっと回って見に戻ってしまう。

ギリシアの神殿や彫刻、ルネサンス芸術やフランドル画家の作品、印象派の作品、。。。みんななぜ良いと感じるのか説明がつく。だから時代を超えて万人を魅了するんだと思うのだけど、現代アートはその理由がわからない。でも理由なんて分からなくていいんです。何も考えず感性にズバッとくる、良いと感じるものが良い。それは人それぞれ違って良い。これが現代アートというものなんだろうな。。。

 

今回も良いものを見せていただき、とても脳みそがリフレッシュできました。

 

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空と雲と 人の営みと

空や雲の写真を撮るときは、純粋な空の姿を収めたくて、できるだけ人口の構造物を入れないようにしています。でも時々無機質な構造物と空の姿がマッチするときがあるのです。

今回はそんな写真を。

 

夕焼け空と鉄塔のコラボレーション。

 

朝焼け空と鉄塔に送電線、そして街人々の生活を象徴する青白い人口的な光。意外と相性良いかもしれません。

 

朝の空、月を指差すように立つ鉄塔。

 

夕日を覆う雲を新幹線の架線越しに見るというのも、悪くないものです。

人と自然、もっと仲良く共存していく方法がきっとあるはず。

 

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ちょっとローマ史9 歴代皇帝

帝政期の歴代皇帝をまとめはじめて、最初は大雑把につくろうと思っていた皇帝リストは、最終的に東ローマ帝国が滅亡する最後の皇帝まで、約1400年分のすべての皇帝170名ほどの名前を連ねることになりました。

在位期間は様々で、アウグストゥスのように44年もの期間皇帝であり続ける人物は稀で、奇跡のような世紀を作った五賢帝はそれぞれ20年ほど。やはり不安定な時代には数ヶ月で暗殺される皇帝が多かったり、この皇帝たちの治世の長さを辿ると、ローマ世界の安定と混乱が感じ取れます。優れた皇帝の治世はもちろん、ダメな皇帝の時代でも帝政は機能してローマを維持し続けた。

でも紀元後200年ごろから始まった衰退は、ゆっくりと進み西ローマ帝国は476年に幕を閉じ、東ローマ帝国は国の形を変えながら1453年まで生きながらえました。

 

ローマ皇帝名簿」もし興味ある方がいらっしゃいましたら是非、最後の皇帝までご覧ください。西ローマ最後の皇帝は偶然にもそれに相応しい名前です。

 

◾️ユリウス・クラウディウス

 前30-後14

アウグストゥス(IMPERATOR CAESAR AVGVSTVS)

在位44年/寿命

後14-37

ティベリウス

(TIBERIVS CAESAR AVGVSTVS) 

在位23年/病死
 
後37-41 

カリグラ(GAIVS CAESAR AVGVSTVS GERMANICVS) 

在位4年/謀殺
 
後41-54 

クラウディウス(TIBERIVS CLAVDIVS CAESAR AVGVSTVS GERMANICVS) 

在位13年/謀殺

後54-68

ネロ 「暴君ネロ」

(NERO CLAVDIVS CAESAR AVGVSTVS GERMANICVS) 

在位14年/自殺

◾️内乱期

暴君ネロの暴走のあと、混乱

 
後68 

ガルバ(SERVIVS GALBA IMPERATOR CAESAR AVGVSTVS) 

在位7ヶ月
 
後68

オト(MARCVS OTHO CAESAR AVGVSTVS) 

在位3ヶ月
 
後69

ウィッテリウス(AVLVS VITELLIVS GERMANICVS AVGVSTVS)

在位8ヶ月

◾️フラヴィウス朝

洗練からは程遠い、でも実直なヴェスパシアヌスがローマを立てなおす。しかしフラヴィウス家最後にはまた悪帝が現れる。

 
後69-79  

ヴェスパシアヌスコロッセオを建設)

(TITVS FLAVIVS CAESAR VESPASIANVS AVGVSTVS) 

在位10年/病死

後79-81 

ティトゥスポンペイの大災害に奮闘した不運の皇帝)

(TITVS FLAVIVS CAESAR VESPASIANVS AVGVSTVS) 

在位2年/病死
 
後81-96 

ドミティアヌス(記録抹殺刑を受ける悪帝とされるが)

(TITVS FLAVIVS CAESAR DOMITIANVS AVGVSTVS) 

在位15年/謀殺

◾️五賢帝の世紀

ネルヴァから始まる五人の賢帝がローマの最大版図とローマ世界の平和(パクスロマーナ)を実現します。

 
後96-98  

ネルヴァ(MARCVS COCCEIVS NERVA CAESAR AVGVSTVS) 

在位2年/病死

後98-117 

トライアヌス (帝国最大版図にした賢帝)

(CAESAR MARCVS VLPIVS NERVA TRAIANVS AVGVSTVS) 

在位19年/病死

後117-138

ハドリアヌス (帝国全土を踏破しその名を残した賢帝)

(CAESAR PVBLIVS AELIVS TRAIANVS HADRIANVS AVGVSTVS) 

在位21年/病死

後138-161

アントニヌス・ピウス (最も幸運な皇帝)

(CAESAR TITVS AELIVS HADRIANVS ANTONINVS AVGVSTVS PIVS) 

在位23年/病死

後161-180

マルクス・アウレリウス (哲人皇帝)

(CAESAR MARCVS AVRELIVS ANTONINVS AVGVSTVS) 

在位19年/病死

◾️乱立・内戦

人皇マルクス・アウレリウスが病死、息子コンモドゥスの時代からローマはおかしくなっていく。

  後180-192

コンモドゥス 

(CAESAR MARCVS AVRELIVS COMMODVS ANTONINVS AVGVSTVS) 

在位12年/謀殺
  後193-193 ペルティナクス(CAESAR PVBLIVS HELVIVS PERTINAX AVGVSTVS)  在位3ヶ月
  後193-193

ディディウス・ユリアヌス(CAESAR MARCVS DIDIVS SEVERVS IVLIANVS AVGVSTVS) 

在位2ヶ月

後193-211

セプティミウス・セウェルス (フォロロマーノ凱旋門)

(CAESAR LVCIVS SEPTIMIVS SEVERVS PERTINAX AVGVSTVS) 

在位18年/病死

◾️3世紀の危機・軍人皇帝の時代

五賢帝の時代100年で五人、この3世紀の100年では約30人もの皇帝が入れ替わり立ち替わり短期間に入れ替わり、そのほとんどが暗殺によるものでした。

  後211-217

カラカラ (カラカラ浴場で有名、悪帝としても有名)

(CAESAR MARCVS AVRELIVS SEVERVS ANTONINVS PIVS AVGVSTVS) 

在位6年/謀殺
  後209-211 ゲタ(CAESAR PVBLIVS SEPTIMIVS GETA AVGVSTUS)  在位2年・謀殺
  後217-218 マクリヌス

在位1年/謀殺

  218-222 ヘラガバルス 在位4年/謀殺
  後222-235  アレクサンデル・セウェルス 在位13年/謀殺

 

 

後235-238

マクシミクス・トラク

在位3年/謀殺
  後238-238 

ゴルディアヌス1世

在位半月/自殺
  後238-238  ゴルディアヌス2世 在位半月/戦死
  後238-238 ピエヌ 在位3ヶ月/謀殺
  後238-238 バルビエヌス 在位3ヶ月/謀殺
  後238-244 ゴルディアヌス3世 在位6年/謀殺
  後244-249 フィリップス・アラブス 在位5年/自殺
  後249-251 トラヤヌス・デキウス 在位2年/戦死
  後251-251 ホスティリアヌス 在位6ヶ月/病死
  後251-253 トレボニウス・ガルス 在位2年/謀殺
  後253-253 エミリアヌス 在位2ヶ月/暗殺
  後253-260 ヴァレリアヌス 在位7年/獄死
  後253-268 ガリエヌス 在位15年/謀殺
  後266-270 クラウディウス・ゴディクス 在位2年/病死
  後270-270 クインティッルス 在位0年/謀殺
  後270-275 アウレリアヌス 在位5年/謀殺
  後275-276 タキトゥス

在位8ヶ月/病死

  後276-276 フロリアヌス 在位3ヶ月/謀殺
  後276-282 プロブス 在位6年/謀殺
  後282-283 カルス 在位1年/事故
  後282-283 ヌメリアヌス 在位1年/謀殺
  後282-284 カリヌス 在位2年/敗死

◾️テトラルキア(4分割統治)期

ディオクレティアヌスによって混乱は治り、帝国は4分割して統治するテトラルキアの時代が始まりました。

後284-305

東帝 ディオクレティアヌス (4分割統治の創設)

(CAESAR GAIVS AVRELIVS VALERIVS DIOCLETIANVS AVGVSTVS)

在位21年/寿命
  後286-305 西帝 マクシミアヌス

在位25年/処刑

  後305-311  東帝 ガレリウス 在位6年/寿命
  後305-306  西帝 コンスタンティウス・クロルス 在位1年/寿命
  後306-307  西帝 フラヴィウス・ヴァレリウス・セヴェルス 在位1年/処刑
  後307-312  西帝 マクセンティウス(非公認) 在位5年/敗死
  後308-324  西帝 - 東方 リキニウス 在位16年/処刑

◾️コンステンティヌス朝

大帝コンスタンティヌスは首都ローマを捨て、コンスタンティノープル(現イスタンブル)へ遷都。キリスト教を公認するなど、舵を大きく切った。ローマは生きながらえるものの、「ローマがローマでなくなっていく」そういう時代となりました。

後312-337

西帝 ”大帝”コンスタンティヌス1世 (遷都、キリスト教公認などローマを大きく作り変える)

(CAESAR FLAVIVS CONSTANTINVS VALERIVS AVGVSTVS)

在位25年/寿命
  後337-340  コンスタンティヌス2世 在位3年/処刑
  後337-361  コンスタンティウス2世 在位24年/寿命
後337-350 

コンスタンス1世

(CAESAR FLAVIVS IVLIVS CONSTANS AVGVSTVS)

在位13年/謀殺
  後3??-350 ウェトラニ 在位??年/寿命
  後360-363  ユリアヌス 在位3年/戦死
  後363-364  ヨヴィアヌス 在位1年/事故

◾️ヴァレンスティアヌス朝

 

後364-375 西帝 ヴァレンスティアヌス1世 在位11年/寿命
  後364-378  東帝 ヴァレンス 在位14年/敗死
  後367-383  西帝 グラティアヌス 在位16年/敗死
  後375-392  西帝 ヴァレンスティアヌス2世 在位17年/自殺

◾️テオドシウス朝

テオドシウス1世、2世によって、東ローマは体勢を盤石にしていく。一方で西ローマの衰退はもう止めることができない。

 

後379-395 東帝 テオドシウス1世 在位25年/寿命
  後383-408  東帝 アルカディウス 在位12年/寿命
  後393-423  西帝 ホノリウス 在位12年/寿命
  後412-412  西帝 コンスタンティウス3世 在位12年/寿命

後408-450  

東帝 テオドシウス2世 (コンスタンティノープルの防壁)

(FLAVIVS THEODOSIVS AVGVSTVS)

 在位42年/寿命
  後423-425   西帝 ヨハンネス 在位2年/謀殺
  後424-455  西帝 ヴァレンスティアヌス3世 在位2年/処刑
  後450-457  西帝 マルキアヌス 在位2年/寿命

◾️西方皇帝(西ローマ帝国)

もう滅びるしかない西ローマ。最後の皇帝の名は「ロムルス・アウグストゥス」。ローマ建国の伝説の指導者ロムルスと、帝政ローマを完成させた神君アウグストゥス。この二人の名前を冠した皇帝が西ローマの幕を閉じる。

 

後455-455 ペトロニウス・マクシムス 在位2ヶ月/ 投石
  後455-456  アヴィトゥス 在位1年/処刑
  後457-461  マヨリアヌス 在位4年/謀殺
  後461-465  リヴィウス・セヴェルス 在位4年/ ?

 

後465-472  アンテミウ 在位7年/ 処刑
  後472-472   オリュブリウス 在位3ヶ月/ 病死
  後472-473  グリケリウス 在位1年/病死
  後473-480  ユリウス・ネポス 在位1年/謀殺
  後475-476  ロムルス・アウグストゥス 在位1年/ ?

*476年西ローマ帝国滅亡

 

◾️東方皇帝(東ローマ帝国またはビザンチン帝国)

国の形を変え、東方キリスト教国家として生きながらえる東ローマ帝国。ローマの血筋をつなぐこの国はここから約1000年続くのです。

 

後457-474

"大帝”レオ1世

在位17年
  後474-474  レオ2世 在位11ヶ月
  後474-491  ゼノ 在位7年
  後475-476  パシリスクス 在位1年

 

後491-518 アナスタシウス1世 在位27年
  後518-527   ユスティヌス1世 在位9年
  後527-565  "大帝”ユスティニアヌス1世

在位37年

  後565-578 ユスティヌス2世 在位13年
  後578-582

ティベリウス2世

在位4年

 

 

後582-602

マウリキウス

在位20年
  後602-610  フォカス 在位8年
  後610-641  ラクレイオス 在位31年
  後641-641 

コンスタンティノス3世

在位3ヶ月

 

後641-641 ラクロナス 在位4ヶ月
  後641-668  コンスタンス2世"ポゴナトス" 在位27年
  後668-685  コンスタンティノス4世

在位17年

  後685-695 ユスティニアノス2世"リノトメトス" 在位10年
  後695-698

レオンティオス

在位3年

 

 

後698-705

ティベリオス3世

在位7年
  後705-711 ユスティニアノス2世"リノトメトス" 在位6年
  後711-713 フィリッピコス・バルダネス 在位2年
  後713-715

アナスタシオス2世

在位2年

 

後715-717 テオドシウス3世 在位2年
  後717-741 レオーン3世"イサウロス" 在位24年
  後741-775  コンスタンティノス5世"コプロニュモス"

在位34年

  後775-780 レオーン4世"ハザロス" 在位5年
  後780-796

コンスタンティノス6世

在位16年

 

 

後796-802

エイレーネー"アテナイア"

在位6年
  後802-811 ニケフォロス1世 在位9年
  後811-811 スタウラキオス 在位3ヶ月
  後811-813

ミカエル1世 ランガベー

在位2年

 

後813-820 レオーン5世"アルメニオス" 在位7年
  後820-829 ミカエル2世"トラブロス" 在位9年
  後829-842 テオフィロ

在位13年

  後842-867 ミカエル4世"メスィソス" 在位25年
  後867-886

バシレイオス1世

在位19年

 

 

後886-912

レオーン6世"フィロソフォス"  賢帝

在位26年
  後912-913 アレクサンドロス 在位1年
  後913-959

コンスタンティノス7世"ポルフュロゲネトス"

在位46年
  後920-944

ロマノス1世レカペノス

在位24年

 

後944-963 ロマノス2世 在位19年
  後963-969 ニケフォロス2世フォカス 在位6年
  後969-976 ヨハネス1世ツィミスケス

在位7年

  後976-1025 バレイシオネス2世"ブルガロクトノス" 在位49年
  -後1028

コンスタンティノス8世

在位3年

 

 

-後1034

ロマノス3世"アルギュロス" 

在位6年
  -後1050 ゾエ(女帝) 在位16年
  後1034-1041

ミカエル4世"パフラゴニオス"

在位7年
  後1041-1042

ミカエル5世"カラファテス"

在位1年

 

-後1042 テオドラ 在位2ヶ月
  -後1055 コンスタンティノス9世モノマコス 在位13年
  -後1056 テオドラ

在位1年

  -後1057 ミカエル6世ストラティオティコス 在位1年
  -後1058

イサキオス1世コムネノス

在位1年

 

 

-後1067

コンスタンティノス10世"ドゥーカス" 

在位12年
  -後1068 エウドゥキア・マクレンボリティサ 在位1年
  -後1071

ロマノス4世ディオゲネス

在位3年
  -後1078

ミカエル7世ドゥーカス"パラビノ"

在位7年

 

-後1081 ニケフォロス3世ボタネイアテス 在位3年
  -後1118 アレクシオス1世コムネノス 在位37年
  -後1143 ヨハネス2世コムネノス"カロ・ヨハネス"

在位25年

  -後1180 マヌエル1世コムネノス"メガス" 在位37年
  -後1183

 アレクシオス2世コムネノス

在位3年

 

 

-後1185

 アンドロニコス1世コムネノス

在位2年
  -後1095 イサキオス2世アンゲロス 在位10年
  -後1203

アレクシオス3世アンゲロス

在位8年
  -後1203

イサキオス2世アンゲロス

在位?ヶ月

 

-後1204 アレクシオス4世アンゲロス 在位1年
  -後1204 アレクシオス5世ドゥーカス"ムルズフロス" 在位?ヶ月
  -後1222

コンスタンティノス・ラスカリス

在位18年

  -後1254 ヨハネス3世ドゥーカス・バタツェス 在位32年
  -後1258

テオドロス2世ラスカリス

在位4年

 

 

-後1261

ヨハネス4世ラスカリス

在位3年
  -後1282 ミカエル8世パレオロゴス 在位21年
  -後1328

アンドロニコス2世パレオロゴス

在位46年
  後1294-1320

ミカエル9世パレオロゴス(共同)

在位26年

 

-後1341 アンドロニコス3世パレオロゴス(共同) 在位13年
  -後1376 ヨハネス 5世パレオロゴス 在位35年
  後1347-1354

ヨハネス 6世カンタクゼノス(共同)

在位7年

  後1353-1357 マイオス・カンタクゼノス(共同) 在位4年
  後1376-1379

アンドロニコス4世パレオロゴス

在位3年

 

 

-後1390

ヨハネス 5世パレオロゴス

在位11年
  -後1390 ヨハネス 6世パレオロゴス 在位5ヶ月
  -後1391

ヨハネス 5世パレオロゴス

在位1年
  -後1425

マヌエル2世パレオロゴス

在位34年

 

-後1448 ヨハネス8世パレオロゴス 在位28年
  -後1453 コンスタンティノス11世パレオロゴス・ドラガセス 在位5年

*1453年5月29日 東ローマ帝国滅亡

 

歴代ローマ皇帝リスト、最後までご覧いただきありがとうございました。

また、お疲れ様でした。

 

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小話 Van Gogh Alive(ゴッホ展)

僕の会社は天王洲、寺田倉庫(美術館)から歩いて5分。寺田倉庫は以前は「スターウォーズ模型展」や「ジブリ展」といったメジャーどころから、「建築模型展」というとても渋い展覧会など、とても僕の好みにマッチした企画展を提供してくれます。この日は昼食も取らずに対応していた仕事が一区切りしたので、息抜きにふらっと寺田倉庫に行ってみました。たしか建築構造展みたいなのをやっているはず。。。そうしたら、こんなゴッホの展覧会が開催されていたので、ほんの15分くらい観て帰ろうと思って入ってみた。

「Van Gogh Alive」と銘打ったこのゴッホ展には本物は一枚もない。でも、ほんの15分と思って入ったのものの出てきた頃にはたっぷり1時間ほどの時間が過ぎていました。

若かりし日のゴッホの肖像

最初導入部分でゴッホの代表作のイラストとゴッホが弟テオに送った手紙のなかで語られた言葉たちが並びます。

途中こんな、アルルのゴッホの部屋が再現されてました。

この辺までは、通常の展覧会と変わりません。

そこから先に進むと、
天井の高い広い空間に、大小向きや角度も様々に違うスクリーンに高精細にゴッホの作品が投影され、しとやかなクラシック音楽と共に、ゴッホの人生に沿って次々と映し出されていく空間へと変わっていきます。

そこにでは、映像と音楽によってゴッホの生涯が語られていきました。

 

ちょっと陰鬱なオランダ時代。

オランダ時代、陰鬱な絵が多いのだけど、どれもその後のゴッホを彷彿とさせる作品たち。

 

ゴッホはパリに出る。

ゴッホはパリで印象派と出会い、日本の浮世絵に出会い衝撃を受ける。

 

そして、見たことのない日本の太陽を求めて、南フランスのアルルへ行きます。そこで芸術家の仲間が集まり共同生活しながら作品を作っていく、「芸術家のコロニー」を作るのがゴッホの夢でした。そしてその夢の舞台となるはずだったのが、このアルルの黄色い家。

ゴッホは日本の浮世絵の中に、日本の太陽を感じ取りました。その色彩は黄色。ゴッホは「日本の太陽」を求めて、南フランスにやってきた。そしてゴッホはそこで「日本の太陽」を感じて、たくさんの作品を描いたのです。

 

ゴッホは黄色い家をひまわりの絵で埋め尽くして、画家仲間の到着を待ち侘びた。

でも、アルルを訪ねてきたのゴーギャンただ一人。そのゴーギャンとの共同生活もあっという間に破綻する。芸術家のようなとんがった人たちが、共同生活なんて僕は無理だと思う。でもゴッホはパリの酒場で仲間と芸術論を交わしたような、そんな生活に憧れたのかもしれません。

これはアルルを流れる「母なるローヌ川(La Rhone)」の夜を描いた、「ローヌ川の星月夜」。

ゴッホはたくさんの人と出会いその肖像を描いた。

ミレーに習って農村風景のと農夫たちを描いた。

アルルで描いた「赤い葡萄畑」。この一枚、このたった一枚だけが、ゴッホ生前売れた作品でした。突然この作品が映し出された、無意識に慌てて撮り残した一枚。

ゴーギャンと芸術に対しての意見が対立し、耳切り事件をきっかけにゴーギャンはアルルを去り、ゴッホは精神に異常をきたしてしまった。ゴッホは弟テオにこんな言葉を手紙に書いている。「ぼくは絵を描くことにあまりに集中しすぎてしまって、精神を壊してしまったようだ」ゴッホはアルルの精神病院で治療した後、サン-レミへ移ります。アルルで過ごした1年余りの期間にゴッホは100枚以上の作品を残しました。

 

サン-レミでは花を描いた。

夜空が渦巻く「星月夜」もサン-レミで生まれた。アルルで描いた「ローヌ川の星月夜」とは明らかに違う夜空の描写はゴッホの精神状態を表している、と感じます。

 

 

ゴッホはパリから少しだけ離れたオーヴェル・シュル・オワース(Auvers-sur-Oise)という小さな村へ移ります。友人ピサロからオーヴェルの精神科医ガシェ医師を紹介されてのことでした。

オーヴェルの小さな村のすぐ裏には広大な麦畑が広がるんです。そして、ゴッホはこの麦畑でピストル自殺を図ります。

胸に一発、ゴッホは自分で自分を打ったのですが死にきれず、オーヴェルの下宿ラヴー亭の自分の部屋、小さな屋根裏部屋に戻ります。オーヴェルのガシェ医師が駆けつけ、パリからは弟テオも駆けつけ、ゴッホは2日後に息を引き取った。

 

と、こんなふうに、様々なスクリーンにゴッホの絵を映しながら、ゴッホの生涯を紹介する、というのがこの「Van Gogh Alive」でした。本物は一枚もないゴッホ展。でもその内容はとても見応えのあるものでした。

僕はゴッホの足跡辿って、オランダからパリ、アルル、オーヴェルを巡ったことがあります。ゴッホが過ごしたパリのモンマルトルの喧騒や、希望に溢れ、そして破れたアルルや、オーヴェルの麦畑や教会や、息を引き取ったラヴー亭の小さな屋根裏部屋。ゴッホの希望と絶望と精神を病むまで情熱を注いだ絵画たち。「Van Gogh Alive」で再びゴッホの生涯を辿りながら、その時の旅のことを思い出して、ところどころ泣きそうになったりして、なんともエモーショナルな時間になったのでした。そんなわけで、15分くらいと思っていたのに、気がつけば1時間がすぎていた。。。。

そんな貴重な昼下がりでした。

 

以前書いたゴッホに関する記事です。お暇な時にどうぞ。。。

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