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旅行の記憶と何気ない日常を

ミラノのドゥオモ

f:id:fukarinka:20210417211244j:plainDuomo di Milano / ミラノのドゥオモ

 建設時期:1386〜1906

 

*「ドゥオモ」って?

フランスで「ノートルダム寺院(Notre-dame)」という同じ名前の聖堂があちこちにあるように、イタリアでは「ドゥオモ(Duomo)」という聖堂を各地で見かけます。「ドゥオモ」とはその土地を代表する大聖堂の呼称です。なので、本来は場所を特定して「○○のドゥオモ」という言い方をします。このドゥオモは「ミラノのドゥオモ(Duomo di Milano)」というのが正しい呼び方になります。

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キリスト教(カトリック)世界にとってのミラノ

ローマ皇帝コンスタンティヌスによって313年に発布された「ミラノ勅令」。これによって、それまで迫害の対象だったキリスト教が初めて古代社会に認められることになりました。そして当時衰退期に入ったローマ帝国の西側の首都となったミラノは、キリスト教世界にとって、公認後のキリスト教発展の礎となった重要な場所でした。

また地政的にもイタリア半島から見て大陸側への扇の要の場所にあり、ミラノという街はイタリアにとっても諸外国にとっても非常に重要な都市であったわけです。

ミラノのドゥオモは地政的にも歴史的にも重要な場所に作られた重要な大聖堂だということがわかります。

 

*完成まで500年?!

聖堂建設はどこもとても時間がかかっており、200年300年は普通でした。でもミラノのドゥオモの時間のかかり方は異常で、1386年に着工し結局教会として現在のようなカタチがほぼ完成したのが1809年(着工から450年後)。更にその後も少しずつ工事は進められ、結局工事完結と宣言されたのは1906年(着工から520年後)。なんと20世紀になってからでした。 

 

ドゥオモ建設のきっかけは1353年サンタ・マリア・マジョーレ教会が崩れ落ちたことによります。当時ローマとミラノの2箇所にしかない「サンタ・マリア・マジョーレ」の一つが崩れた事はキリスト教世界では一大事で、その代わりとなる新たな大聖堂(ドゥオモ)の建設が急がれました。

ただし工事は、ミラノ公国誕生後、有能な君主の登場を待たなければなりませんでした。

ミラノ公ジャン・ガレアッツォ・ヴィスコンティの治世の1386年にようやく着工。このときジャン・ガレアッツォの意向でイタリアだけでなく外国の建築家たちも招かれ聖堂建設に当たることになりました。ロマネスク様式が主流だった当時のイタリアでゴシック様式の聖堂として建設が進められた理由の一つはこんなところにあってのでしょう。

ミラノのドゥオモ建設 略史

14世紀 1386着工
15世紀 中央祭壇、八角形円蓋完成(レオナルドはコンペに負ける)
16世紀 半世紀工事中断。再開後は宗教改革の余波から内部をバロック風に変更される。
17世紀 正面の工事中断。その後1世紀半の間手つかずとなる。天井の完成。
18世紀 八角円蓋の上の尖塔完成。聖母マリア像が立つ。
19世紀 ナポレオンが戴冠式を行うために1809年正面の工事を強引に完成させる。時短命令により、当初のプランとは異なるカタチとなった。
20世紀 中央入り口の扉の取り付けによって完成

聖堂としてはローマのサンピエトロ寺院に次ぐ、イタリア第2の規模。ゴシック建築としてはイタリア最大というのがこの「ミラノのドゥオモ」だけど、工期520年の理由はその規模の大きさではなく、ミラノという国の宿命みたいなものによる。

これはミラノの街自体がキリスト教の、そして地政上の要衝であることから、いろいろなものに狙われ、支配者が頻繁に入れ替わり、破壊と再構築が繰り返されたことで、ドゥオモの工事も520年の間、何度も工事が中断されたり計画が見直されたりしたのでした。

 

*唯一無二、不思議なファサードの誕生の裏に。。

ミラノのドゥオモは「ゴシック様式の聖堂」です。でもイタリア国内やゴシックの本家フランスなど含めても類を見ない唯一無二のフォルムをしている、とても貴重な建物でもあります。

ミラノのドゥオモの最大の特徴は三角形のファサード。他のゴシックの聖堂とはずいぶん違った「顔」をしている。

 

*イタリアで購入した絵葉書

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下にある図面はミラノのドゥオモの完成予定図(だった)。

そもそもは他のオーソドックスなゴシック聖堂として正面に高い鐘楼を持つファサードのプランで工事が進められていた。もし計画通りに完成していたら、ドイツのケルン大聖堂のような姿になっていたかもしれません。

 

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なぜ、鐘楼は作られなかったのか?

鐘楼含むファサードの工事が進められようとした当時、ミラノはナポレオンの支配下にありました。ナポレオンはイタリアに王国を作り、自分が国王に即位して統治することを急ぎ進めたかった。その即位の舞台は「ミラノのドゥオモ」でなければならなかったのです。キリスト教世界で大きな影響を持つミラノ。その大聖堂という完成した舞台がすぐに必要だった。工期を大幅に短縮するため、鐘楼削除で無理矢理、身廊部分の断面を正面ファサードに仕上げさせたのでした。

その結果わずか4年でほぼ現在と同じ状態になり、ナポレオンは無事、完成した大聖堂で戴冠式を行う事ができたのです。

 

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 ナポレオンの都合でプランを変更し、あるべきものを削って超特急で仕上げさせたのが現在に続くミラノのドゥオモの姿。でもそれが唯一無二のとてつもない個性となったわけです。そして、急な変更でこのファサードがよくこれほど美しく仕上がったこと。これは奇跡と言えるかもしれません。

ゴシック建築はもともと北フランスで生まれ、その後北方へ広がっていったもの。なので実はイタリアでゴシック建築はあまり見られない。ドゥオモ建設にあたりジャン・ガレアッツォ・ヴィスコンティが外国の建築家を招かなかったら、そもそもゴシック様式ではなかったかもしれません。

ジャン・ガリアッツォ・ヴィスコンティナポレオン・ボナパルト。ミラノの人々が誇れる唯一無二のゴシック聖堂の誕生は、この二人によるところが大きいといえます。

 

*ドゥオモの中へ

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 今どんなシステムになっているかわからないけど、当時は左にある紙のチケットを購入してドゥオモの内部に入りました。これで聖堂内部の見学と屋上に上がることができたはず。。

味のあるデザインと入場で開けられたパンチの後がなんとも懐かしくも暖かい。

 

ミラノのドゥオモはゴシック建築末期に建設されたことと、フランスで生まれたゴシックにイタリア人の感性が融合したことで、本家フランスのどの寺院よりゴシック様式の完成が見られていると言います。

 

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*そして屋根の上へ

屋上へ向かう途中、ドゥオモの梁の構造や、針のような尖塔群が間近で見られます。

数えきれないほどの尖塔が林立し、そのひとつひとつに聖人の彫像が立って、ミラノの街を見守っている。この聖人たちは歴史に翻弄されたミラノの街をどんな思い出見ていたのでしょう?

間近で見るとゴシック様式のフライングバットレス(飛梁)の構造美と合わせて、細部までとても美しい建築になっているのがわかります。

天気が良く空気が澄んでいれば、ここから遠くアルプスの山々まで見渡す事ができるとか。

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中央の尖塔の上には聖母マリアの像が建ちます。

この中央の八角塔は15世紀、ルネサンスの真っ只中にミラノで活躍する多くの芸術家から設計を公募し、入選した者を塔の建築主任に抜擢しました。ちなみにこの時、レオナルド・ダ・ヴィンチも応募したのですが落選でした。

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 教会の十字の中心となる中央の八角塔部分。細部まで見ると素晴らしいのだけど、全体的に捉えた場合、とても控えめな存在となります。その後のルネッサンス様式になると十字のプランの中央は尖塔からクーポラ(円蓋)にかわって行くのです。

 

ドゥオモ屋上から眺める、ドゥオモ広場。上から見るとよくわかる広場の床の模様。

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夜になってドゥオモがライトアップされると、正面のファサードとこの聖母マリア像が、たくさんの尖塔の中、この金色のマリア像だけに光が当たり、夜空に浮き立ち存在するという、とても神秘的な姿を見せてくれます。

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 *ドゥオモへの想い

ミラノという場所の特殊性から、度重なる建設工事の中断。延びに延びた工期はナポレオンによる突貫工事でようやく聖堂として現在の姿となった。ここまでに約420年の歳月が費やされて、その後も工事はつづき、最終的な完成まで更に100年。トータルで520年というとてつもない時間をかけてミラノのドゥオモは完成しました。

「ドゥオモの建設工事のように長い・・・・」

ミラノの人々は気の遠くなるような時間を、こんな風に形容するそうです。。。

ミラノの人々のドゥオモへの大切な想いが詰まった言葉です。

 
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ミラノ 街歩き

f:id:fukarinka:20210307143135j:plain「一体ミラノのような街を深く知ることができるのか?できるかもしれない。できないかもしれない。。。」
 僕がミラノで買った現地ガイドの冒頭に書かれた言葉です。

ミラノは幾度も支配者が変わりそのたびに街は作り替えられてきました。そのためその生い立ちを辿るのが難しい、というわけです(*詳しくは後ほど)。

実際、ミラノはイタリアの他の街と違って雑然としています。でもその所々に、それぞれの時代を象徴する名所旧跡が散りばめられているのです。

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■ドゥオモ広場 (P.za del Duomo)

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イタリアゴシックの最高傑作「(ミラノの)ドゥオモ」の広場、ミラノ一番の名所です。四角い広場で、上の写真ではドゥオモ(大聖堂)を正面に左手に凱旋門のようなガレリア、下の写真では右手に王宮といった歴史的芸術的な建物が並び、写真にない1辺だけ電飾ぴかぴかの看板に覆われた、好意的に表現すれば「現代的な建物」に囲まれています。構成する建物の様式がばらばらなため広場全体としては調和に欠け、お世辞にも「美しい広場」というわけではありません。でもその不完全さのおかげで重厚ながら肩肘はる必要のない心地良さがこの広場にはあるのです。

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 この角度ではドゥオモと王宮と比較的きれいな広場が見られる。ただ背中を振り向くと日本の新宿を思わせる電飾ぴかぴかの景色が拝めます。それもミラノの姿です。

 

■ドゥオモ(Duomo di Milano)

イタリアで街を代表する大聖堂のことをドゥオモ(Duomo)と呼びます。ミラノのドゥオモは聖母マリアを讃える教会で、14世紀から約500年かけて完成したミラノの象徴です。空に突き出す尖塔は135、ミラノの街を見下ろすように立つ彫像は1500体以上。イタリアゴシック様式として最大にして最高傑作と言わる聖堂です。

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詳細はこちらで
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■ヴィットリオ・エマヌエレ二世のガレリア  (Galleria V. Emanuele Ⅱ)

1865年から12年の歳月を費やして作られたガラス天井のアーケード。

ガレリアを創造した建築家J.メンゴーニはガレリアの除幕式の前日、ガレリアの足場から落ちて亡くなってしまった。ガレリア完成に対してのミラノ市民の熱狂を知る前に。

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鉄とガラスの天井、ネオ・バロック+ネオ・ルネッサンス様式の混ざり合った建物、モザイク画がアーケードを構成している。いろいろな様式が混在するミラノらしい建築。

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ドゥオモ広場からここを抜けるとオペラの殿堂「スカラ座広場」に出ます。ドゥオモとスカラ劇場を結ぶこのアーケードにはオペラ関係者、芸術家など文化人が昔も今も集まります。

 

スカラ座広場(Piazza della Scala

アーケードを抜けるとスカラ座広場に出ます。そこにはレオナルドとその弟子たちの像がたちます。レオナルド・ダ・ヴィンチ記念国立科学博物館はじめ、ここミラノにはレオナルドの足跡が多く残ります。

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 ■スカラ座(Teatro Alla Scala )

イタリア国立歌劇場。1778年イタリア最高のオペラ劇場として建築家J.ピエルマリーニによって建てられました。オペラの殿堂としては2代目の建物で、初代テアトロ・ドゥカーレ(Teatro Ducale)は1776年に焼失、新しいオペラの殿堂として現在の場所に建設されました。

当時ミラノはオーストリア(ハプスブルク家)に支配されており、スカラ座の建設も当時の女帝マリアテレジアの許可が必要でした。スカラ座は完成当時から上流階級が一堂に集まる文化的空間として注目され、ヴェルディプッチーニなど多くの著名な作曲家の有名なオペラの初演の舞台となってきました。

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■ダンテ通り(Via Dante) 

ドゥオモ広場からスフォルツェスコ城へ向かう時に通る道。歩行者天国でショッピング天国。

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■スフォルツェスコ城(Castello Sforzesco)

ダンテ通りの果てにこのスフォルツェスコ城があります。戦乱と都市計画というミラノの破壊の歴史の中で、かろうじて守られた遺産です。

12世紀末に中世ミラノ公国の支配者、ビスコンティ家が小さな居城として建て、その後を継いだスフォルツァ家がルネッサンス様式の城塞として改築しました。現在はミラノ市歴史資料室、美術館、図書館として使われています。美術館にはミケランジェロの最後の作品「ロンダニーニのピエタ(未完)」があります。*詳細は後ほど

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■センピオネ公園(Parco Sempione)と平和のアーチ(Arc della Pace)

スフォルツェスコ城の裏手に広がる、もとスフォルツァ家の庭園。その向こうにあるのが平和のアーチ。

平和のアーチはもともとオーストリアからミラノを解放した、ナポレオンに対する敬意として1807年に「凱旋門」として建てられました。そして1859年イタリア独立の際にはV.エマヌエレ2世とフランス王ナポレオン3世がこの凱旋門をくぐり、それ以降「平和のアーチ」と呼ばれるようになりました。

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■サンタ・マリア・デッレ・グラツィエ教会 (Santa Maria delle Grazie)

1466年スフォルツァ家の菩提寺として建てられた教会。世界遺産に登録されたこの教会の修道院の食堂にレオナルド・ダ・ヴィンチが描いた「最後の晩餐」があります。

*詳細は後ほど

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ミラノ中央駅 / Stazione Centrale

おそらくヨーロッパで1,2の規模を争う駅です。その大きさと駅の構内の華麗さには度肝を抜かれます。

でもそんな駅の華麗さとは対照的に駅前は無表情な近代的な建物が多く、雑然としたちょっと冷たい印象をうけるのです。中央駅周辺はミラノの街を象徴するような一角でした。

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■ミラノを思うに

古代ローマに起源を持つミラノの街は歴史的に、たくさんの支配者に入れ替わり支配され、そのたびに街は作り替えられてきた。現在に至るミラノの街の構成要素には、色々な時代、様式が入り乱れ、イタリアでありながら雑然とした印象を受ける理由はそこにあります。でも、そのおかげで常に最先端を意識する、世界的なファッションとイタリアを先導するビジネスの街として機能しているわけで、一部に古いものを残しながら新しくという部分については日本と重なる点がありますね。

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 そんな破壊と再構築の街の中、ミラノ市民が変わらずに守りつづけている貴重なもの。それをこれからたどっていきましょう。

 

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ミラノ 目次

f:id:fukarinka:20210307143135j:plainここミラノは北イタリア最大の都市であり、イタリア経済の首都。

また、ファッションではパリと世界を二分する「ファッションの都」、さらにオペラの殿堂「スカラ座」のある街、サッカーセリエAの名門ACミランインテル・ミラノの本拠地。

様々な顔を持つミラノですが、ほかのヨーロッパの都市の例にもれずローマ人によってこの街は興りました。絵画的なイタリアのほかの街とは異なり、大都市故か繁栄と破壊が歴史に多く刻まれたためにか、街並みそのものは雑然としている感があります。

それでも所々にイタリアの優れた歴史が刻まれる、そんなミラノは僕にとっては、イタリア第二の大聖堂「ドゥオモ」と芸術世界の最高傑作「レオナルド・ダ・ヴィンチによる最後の晩餐」に出会うための街でした。

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ミラノ風景1

f:id:fukarinka:20210307143135j:plainilano Gallery 1

 

アーケードを抜けるとそこにはイタリア最大で最も美しいと言われる大聖堂が。。。 

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たくさんの尖塔の上には聖人が立ち、ミラノの街を見守っています。

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ゴシック様式なんだけど、ふたつとないこの特徴のあるファサードは一体、なぜ?

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僕にとってのミラノは何を差し置いてもここにくるためだった。。。

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イタリア 目次

f:id:fukarinka:20210408225431j:plainかつて、約1000年にわたって世界の中心だったイタリア半島。世界の中心となり得たのは言うまでもなく、地中海をそっくり包む大帝国を作り上げたローマ人の力です。そしてローマが衰退したその後もイタリア半島は宗教(カトリック)、そして芸術、ファッションの中心として栄え、時間的にも空間的にも世界中に大きな影響を与え続けてきました。

僕は「世界で一番好きな国は?」と聞かれたら、迷わず「イタリア」と答えるでしょう。ローマの歴史があり、ルネサンスがあり、豊穣な土地、豊かな食文化等々イタリアの魅力は尽きることがありません。「水の都」「花の都」そして「永遠の都」と名付けられた街まちはその名にふさわしい素晴らしい所ばかりです。 さあ、イタリアへ行ってみましょう。

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イタリア小話 イタリアへの道

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当時イタリアは治安の悪い国として知られていたので、いつも緊張感とともにイタリアへ入国していました。入国方法はその時々でいろいろ。空路で直接イタリアに入ったり、ドイツから、スイスから、フランスから鉄道だったり、車だったり。

 

*スパイが如く

初めて単身イタリアに行った時のこと。その時は空路でローマに入りました。ローマのフィウミチーノ空港に夜の9時到着。空港からローマ中心部まで列車で向かいます。その時のフライトはミラノ経由。ミラノで大半の客が降りてしまい、ローマまで行く人自体あまりいなかった。なので、その時に列車でローマ中心部へ行く人はほとんどおらず、空港駅の切符売り場は閑散としている。一つだけ空いていたチケット窓口で切符を買って寂しい感じのホームから、寂しい列車に乗り込んだのでした。まだ旅行に慣れてない頃でもあったので「治安の悪いイタリア」っていうけど、一体どう治安が悪いのか?想像膨らんでしまって、緊張感も最高潮です。列車に乗ってる人もほとんどおらず、でもポツポツ乗ってる人がいる。そのぽつぽつの人がみんな悪人に見える。

そしてローマに夜10時近く到着して、そこからホテルを探す。最初は駅から少し離れたところの宿を考えていたけど、近場で探すことにした。路地も暗くて、そこでまた人がぽつぽついる。賑やかに人がいればなんのことはないのだけど、治安の悪いと言われる街で、暗がりでぽつぽつと出くわす人はやはり、みんな悪人に見えてしまう。誰かにすれ違うときは身構えながら、閉店した店の前を過ぎるときはショーウィンドウの反射で自分の後ろに怪しい人影がないかを確かめながら、007さながらに夜のローマの街をホテルまで歩きました。

これは楽しいイタリア旅行の初日のことです。まあ、何も事件は起きなかったのですがね。

用心するに越したことはないのだけど、今思えば、、、、でもまあそのくらいでよかったと、今思ってもそう感じます。日本ではない場所では、常識を取っ払って過剰に注意して行動することがトラブルを遠ざけるために、旅行を楽しい思い出とするためにも最低限必要なことですね。

 

*緊張高める車両ペイント

さて、イタリア入国で一番多かったのが鉄道なのだけど、これもまた緊張感高まります。

例えばスイスからイタリアへ向かう時。スイス国内はどの駅も清潔で花が飾られて、のどかさと洗練がミックスされたとても良い雰囲気です。車窓から見える景色もとても気持ちが良い。それがイタリア国境を越えるあたりで状況が変化するのです。まだ国境越えたばかりはスイスの影響が残って綺麗なのだけど、だんだんと荒んでいくのがあからさまにわかります。

イタリア人のおおらかさといえばそういうことなのかもしれません。当時経済的にも低迷してしまった「治安の悪い国」とはこういうことかと肌で感じました。そしてこの時ジュネーブからミラノへ向かったのですが、ミラノに近づくにつれて、駅も列車も落書きの量が増えていく。当時さらに治安の悪い場所として知られたニューヨーク。テレビで見たニューヨークの地下鉄もこんな感じに落書きペイントだらけだった。○分に1件の強盗事件、1日に○件の殺人事件が起こるニューヨークみたいな街?。。。そんなことが頭をよぎり、緊張感が最高潮に高まった状態で、無事ミラノ中央駅に到着。

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*おかげさまで

そんな感じに、イタリア入国の思い出というのは、「緊張感」しか残っていません。でも、そのおかげもあってか、トラブルに遭遇したことは一度もなく、そこから始まるイタリアの珠玉の街々を放浪した思い出は素晴らしいことばかり。

これからしばらく, 街も人も歴史も豊かで奥深い、イタリアの思い出を綴ります。

 

*ところで、国安全度を示す指標に「世界平和度指数」なるものがあるそうで、2019年のそれによると日本は9位に対して、イタリアは39位だそうです。イギリス45位、フランス60位とあるので、イタリアの治安はだいぶ改善したんでしょうね。全168カ国の統計によるもので、ちなみに1位はアイスランドアメリカは128位、中国は110位だそうです。

 日本を基準にするとどこも危険となってしまいますが、最低限の注意を怠らなければ、楽しい旅行になるはずです。

 

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シャモニ5 魔の山登頂史

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登山の対象としてのモンブラン(Mont-blanc 4807m)は、エギュイーユ・デュ・ミディを起点に標高差1000mほどの登山行で登頂可能であり、そのスジでは比較的難易度の高くない山とされていると言います。そんな手軽な「ヨーロッパ最高峰」に年間2万人もの登山者がアタックするそうです。

たしかに見た目にも、特にシャモニ側から見るモンブランの姿からは、マッターホルンやアイガーのような、人を寄せ付けない「圧倒的な威圧感」のようなものは感じられません。

モンブラン表の顔

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*呪われた魔の山

しかしモンブランは古くから多くの登山家の命を奪ってきた「魔の山」として知られ、比較的難易度は高くないと言われる今ですら、年間に多くの事故が起きているといいます。シャモニからの見た目の柔らかさとは裏腹にその懐はとても厳しく危険だということのようです。

モンブラン裏の顔

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実際、登山ルートのあちこちに危険な場所があるというのも事実のようだけど、当時モンブランが難攻不落と言われていた理由は意外なところにありました。

モンブランで夜を過ごした者は生きては帰れない」という山の迷信。

シャモニの村からモンブラン山頂まではたっぷり2日はかかると言われ、一晩から二晩山の上で過ごさないと登頂はできない。魔の山、呪いの山で夜を過ごすことに怖気付いた登山家たちは、「人類初のモンブラン登頂者」という栄誉を迷信によって妨げられていたわけです。

 

*登頂への狼煙?

モンブラン登頂に向けて兆しが現れます。きっかけは1760年、スイス・ジュネーブ博物学ソシュールモンブラン登頂を果たした者に莫大な賞金を出すと宣言しました。ソシュールは別に初登頂の栄光が欲しかったのではなく、科学者としてモンブランの山頂で科学的調査をしたかっただけ。そのためのルートを確保したかった、というのがその動機でした。名誉とか栄光とか何かメラメラした欲求とかとは違った、技術者的な平坦発想だったところが何か共感してしまいます。

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そしてその懸賞金のために、呪いの迷信をものともしなかった一人がジャック・バルマ。水晶ハンターで冒険家だった彼が欲しかったのは初登頂者の栄誉よりも多額の賞金。

そしてもう一人、医師であるミシェル・パガール。彼は賞金が欲しかったわけでも初登頂の栄誉が欲しかったわけでもなく、ただモンブランに魅せられていた。そして科学的な興味として山頂の気圧を知りたかった。

二人とも登山家ではなかったし、ソシュールと同じく名誉、栄光には興味のない二人(バルマの懸賞金欲しさはドロドロしたものを感じますがね)が魔の山征服に向けて大きく動き出しました。

 

*迷信が消え

最初1786年6月に二人は別々にアタックを試みましたが失敗に終わります。その時冒険野郎のバルマは悪天候に進むも戻るもできず、嵐の中、氷河の上に一晩中とどまらざるを得なくなります。その時、雪に身を埋めて嵐が去るのを待ち、かろうじてでも無事生還することができたのでした。バルマが夜の猛吹雪を乗り越えて生還したこの時、いままでモンブラン登頂を阻んできた迷信は過去のものになります。

その2ヶ月後にバルマとパガールは手を組み、再度それぞれの欲望のために魔の山に挑みます。

8/7午後にシャモニの村を出発、ボソン氷河の横の山上で一晩過ごし、8/8 午前4時に出発し、18時23分ついに二人は魔の山モンブランの山頂に立ちました。パガールは山頂で念願の気圧の測定を行いました。

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下山途中、パガールは帽子を失ったために雪盲となってしまい、最後はバルマに手をひかれてやっとのことでシャモニへ到着した。

 

*望まざるも英雄に

こうして二人はそれぞれの欲望を満たし多額の賞金を手に入れました。そして英雄として迎えられ歴史に名を刻むことになります。ジャック・バルマは名前に「モンブラン」を冠する特権を当時の王様から与えられました。

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さて、多額の懸賞金を設定したソシュールはというと、天候に恵まれずモンブランに登頂できたのは1年後 の1787年8月となりました。このとき氷河の調査や科学実験をモンブランの山頂で行い、懸賞金の発表をしてから27年かかりましたが、こちらも夢を果たすことができたわけです。

ちなみにソシュールが登頂したときの様子として、こんなことが伝えられています。召使い1人とジャック・バルマ含むガイド18人をひきつれての登山行。持ち物は食料と実験道具、テントや登山道具はもちろん、なぜか折り畳み式ベッド、清潔なシーツに毛布、フロックコート上着、チョッキ、ワイシャツといったおしゃれ着数着、スパイク靴数足、革靴、そしてスリッパ等々、登山とは思えないたくさんの荷物を携えてのモンブラン登頂だったそうです。

 

こうしてアルプス最高峰モンブランの登頂はなされました。「初登頂」には興味がない、登山家ではない三人の力によって。

そして、このバルマとパガールによるモンブラン登頂によって近代登山の幕が開けるのでした。

 

ちなみにその後のアルプス名峰の初登頂は。。。。

1811/8/3 ユングフラウ(Jungfrau 4158m) マイヤー兄弟初登頂

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1855/8/1 モンテローザ(Monte Rosa 4634m) チャールズ・ハドソン初登頂

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1858/8/11 アイガー(Eiger 3970) チャールズ・バリントン初登頂

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1865/7/14 マッターホルン(Matterhorn 4478m) エドワード・ウィンパーら初登頂

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そしてアルプスではないけれど

 1953/5/29 エベレスト(8849m)

 

 

モンブラン登頂はアルプス名峰制覇の先駆けだったんですね。

 

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