cafe mare nostrum

旅行の記憶と何気ない日常を

ヴェネツィア 3 サン・マルコ広場

f:id:fukarinka:20210626021132j:plainサン・マルコ広場(Piazza San Marco)

ヴェネツィアでPiazza(広場)と呼ばれるのはサン・マルコ広場だけ。

正面にヴェネツィアの象徴「有翼のライオン」と「聖テオドーロ」の二つの円柱(Colonne di San Marco e San Todaro )が立ち、ヴェネツィアを訪れた人を迎えます。

サン・マルコ広場は、波打ち際の小広場と奥の大広場で構成され、宗教(サンマルコ寺院:右手奥)、政治(ドゥカーレ宮殿:右手前)、文化(図書館:左、博物館、時計台:一番奥)を集中させたヴェネツィア共和国の繁栄の中心であり、ヴェネツィアの心臓にあたります。9世紀に誕生して何度かの改築が行われ、ほぼ現在の姿になったのは15世紀ころといわれています。

18世紀末イタリア北部を手中にしたナポレオンがここを訪れた時、「この広場は世界の大広間だ」と絶賛したといいます。

*朝早いので人がとても少ない。

f:id:fukarinka:20210620195022j:plain

 ヴェネツィアで買った絵葉書 海から見たサンマルコ広場の建築

f:id:fukarinka:20210620195643j:plain

奥の大広場は長方形の広場に思えますが、空から見ると実は台形(奥へ行くほど狭く)になっていて、実際の大きさ以上に広く感じます。

*繰り返しになりますが早朝なので人がいなくて快適です

f:id:fukarinka:20210620195045j:plain

やがて人々が動き出す時間になると徐々に賑やかになっていき、そして昼過ぎともなれば世界中から押し寄せる観光客と、それ以上の数の鳩でこの広場は埋め尽くされることになるのです。下の写真はまだ、朝。

f:id:fukarinka:20210620195121j:plain

方形の広場にはいくつものカフェが並び、外では楽団の生演奏が響きます。ヨーロッパで初めて「コーヒー」を出したヨーロッパ最古のカフェ、カフェ・フローリアンもここにあります。

 

次回、日中のサン・マルコ広場の姿を。

 

cmn.hatenablog.com

cmn.hatenablog.com

 

 

 

 

 

 

ヴェネツィア 2 海の玄関口(サンマルコ広場)

f:id:fukarinka:20210605170627j:plainかつてのヴェネツィア共和国の玄関口はサンマルコ広場でした。ヴェネツィアを訪れる外国人は、海から必ずここに上陸したそうです。

ローマ人の物語の著者塩野七生さん曰く「ヴェネツィアを訪れるなら船に限る」。海から眺めるヴェネツィアと徐々にせまるサンマルコ広場、その感動は計り知れない、と。

僕は列車でヴェネツィアに入ってしまったので感動の度合いは違うかもしれないけれど、その「海から」の雰囲気を少しでも味わおうと考えた。そんなわけで水上バス「ヴァポレット」に乗り、大運河をたどり、海からサンマルコ広場を目指したのでした。

f:id:fukarinka:20210619230751j:plain

サンタルチア駅から大運河を、古く歴史ある、かつ斬新な建物を両岸に眺めながら進むとやはて見えてくるサンタ・マリア・デッラ・サルーテ(Basilica di Santa Maria della Salute)のクーポラは大運河の終わりの目印。ここを抜けると広い干潟の海がひらけます。そして左手にはサンマルコ広場の鐘楼が見えてくるのです。

f:id:fukarinka:20210620194634j:plain

そしてヴァポレットはサンマルコ広場の正面に出る。

f:id:fukarinka:20210620194756j:plain

水上バスのヴァポレットですら、海からサンマルコ広場に入ることは、僕にとっては十分すぎるほど感動的でした。もし外海から船で入港でもしたものなら感動して気を失っていたかもしれません。

f:id:fukarinka:20210620194809j:plain

右手にドゥカーレ宮殿(Palazzo Ducale)、左手にマルチャーナ図書館が正面両脇に構えます。

サンマルコの象徴「有翼のライオン」と「聖テオドーロ」の二つの円柱(Colonne di San Marco e San Todaro )が訪れる人々を迎え、サンマルコ広場へと導くのです。

サンマルコ広場ヴェネツィア共和国に上陸です(という気分です)。

 

cmn.hatenablog.com

cmn.hatenablog.com

cmn.hatenablog.com

ヴェネツィア 1 大運河

f:id:fukarinka:20210619225235j:plain大運河(カナル・グランデ/Canal Grande)は大小さまざまな船と優雅なゴンドラが行き交ういわば「メインストリート」。サンタ・ルチア駅からサンマルコ広場まで全長約4km、逆S字形にヴェネツィア本島をうねりゆく。

僕はヴェネツィアに着いて、まずサンタ・ルチア駅から水上バス(ヴァポレット)に乗って、サン・マルコ広場を目指しました。

f:id:fukarinka:20210619230703j:plain

カナル・グランデの両脇には12世紀から18世紀に作られた、ビザンチン、ゴシック、ロマネスク、ルネッサンス様式の豪華な館が軒を連ねます。

ヴェネツィア建国当初は東ローマ帝国ビザンチン帝国)の支配下だったこともあり、もともと大運河両岸に連なる館はビザンチン様式でした。やがてヴェネツィアが地中海貿易を独占し、大運河が貿易港としても機能するようになると、オリエント貿易で得た大きな富がここ大運河に集まり、15世紀以降、大運河に面した建物は豪華、華麗さを競うようにルネッサンス、ゴシック、バロック様式に建て替えらました。それから500年、時間が止まったようにここの景色は変わっていないといいます。

f:id:fukarinka:20210619231135j:plain

華やかな時代の名残。大運河は表情豊かに僕を迎えてくれました。

f:id:fukarinka:20210619231210j:plain

ヴェネツィアの館は「ゴシック」「ルネッサンス」・・とは分類されるのだけど、実際はひと味違う。一つはビザンチン様式とイスラム様式の特徴が取り入れられていること。もう一つは水面に直接面した建物であることですでに、普通の建物とは違う。僕は大運河の建物の「水際」にとても惹かれました。玄関、桟橋、車庫ならぬ「艇庫」など水からのアプローチはヴェネツィアならではで、建物によりさまざまでした。

 

f:id:fukarinka:20210619231239j:plain

大運河を水上バス(ヴァポレット)でサンタ・ルチア駅からサンマルコ広場へ向かうと、まるで建築博物館。それだけでもかなりヴェネツィアを堪能できます。今はこれら大運河に面した貴重な建物に人は住んでいないそうで、建物の保護、景観の保護のため人は生活していないらしい。でも夜になると人がいるかの如く明かりが灯ります。

f:id:fukarinka:20210619230751j:plain

奥にサンタ・マリア・デラ・サルーテのクーポラが見えてきました。

カナルグランデが終わり、もうすぐサンマルコ広場です。

 

 

cmn.hatenablog.com

cmn.hatenablog.com

ランデ(Canal Grand

 

e/大運河)ル・グランデ(Canal Grande/大運河)

ヴェネツィア 目次

f:id:fukarinka:20210530100423j:plain

”海よ!ヴェネツィアは汝と結婚せり。永遠にヴェネツィアとともにあらんことを”

こう唱えて市長が黄金の指輪を海に投げる。毎年夏のキリスト昇天祭のあとに行われる「センサの祭り(Festa della Sensa)」でのヴェネツィアの「結婚の儀」。

「水の都」「アドリア海の女王」この世に二つとない海の上の美しい街は、海に守られ海に育まれてきました。そして毎年こうして海との絆を確かめるのです。

 

ヴェネツィアを空から見ると「たい焼き」の形をしています。水の都は「たい焼き」本島とその周り点在する100を超える島々から成ります。

そして本島の中心を逆S字の形にカナル・グランデ(Canal Grande/大運河)が横たわり、大運河に注ぐ大小さまざまな運河が巡り、それに400もの橋が渡され、ヴェネツィアの景色を作るのです。

f:id:fukarinka:20210616013957j:plain

イタリア本土から一本の橋を辿って、ヴェネツィア・サンタ・ルチア駅に到着し列車を降り、駅を出た僕を待ち受けていたものは。。。。。今まで見たこともない世界。

駅のすぐそこに運河が走り、船がポッポと走っていく。

街はある。建物もある。

でも道の代わりに水があり、車の代わりに船が走る。

アドリア海に面したラグーナに浮かぶこの街はすべてが僕の想像をこえていました。

あまりの不思議さに、第一声が「なんだここは!?」思わず笑ってしまいました。

これが僕のヴェネツィア到着第一歩でした。

ヴェネツィア上陸最初の風景

f:id:fukarinka:20210616014355j:plain

さあ、ヴェネツィアの街へ

 

cmn.hatenablog.com

cmn.hatenablog.com

cmn.hatenablog.com

cmn.hatenablog.com

cmn.hatenablog.com

cmn.hatenablog.com

cmn.hatenablog.com

cmn.hatenablog.com

cmn.hatenablog.com

cmn.hatenablog.com

cmn.hatenablog.com

cmn.hatenablog.com

cmn.hatenablog.com

cmn.hatenablog.com

cmn.hatenablog.com

cmn.hatenablog.com

cmn.hatenablog.com

cmn.hatenablog.com

cmn.hatenablog.com

cmn.hatenablog.com

cmn.hatenablog.com

cmn.hatenablog.com

cmn.hatenablog.com
cmn.hatenablog.com

cmn.hatenablog.com

cmn.hatenablog.com

cmn.hatenablog.com

cmn.hatenablog.com

cmn.hatenablog.com

cmn.hatenablog.com

cmn.hatenablog.com
cmn.hatenablog.com

cmn.hatenablog.com
cmn.hatenablog.com
cmn.hatenablog.com

 

 

 

 

 

欧州列車の小話 ヴェネツィアへの道

f:id:fukarinka:20210530100423j:plainある年に僕は、フィレンツェからいわゆるイタリアの新幹線「ユーロスター・イタリア」に乗りヴェネツィアを目指しました。

花の都から水の都へ。ルネサンスの街からこの世にふたつとない海に浮かぶ街へ。

 

f:id:fukarinka:20210613171049j:plain

この列車、イタリアの有名な車デザイナー、ジウジアーロのデザインだそうで、こういうところにこの名前が出てくるところが、イタリアという国を象徴しているように思えて羨ましく感じてしまいます。

f:id:fukarinka:20210613144012j:plain

 列車がフィレンツェS.M.N駅を出るとすぐ大きなサンタマリア・デル・フィオーレのクーポラが僕を見送ってくれるんです。僕は車窓からあのクーポラを見ることで、フィレンツェに到着したことも、離れることも実感します。

 

さて列車は程なく街抜け、豊かな田園地帯を行くことになります。このフィレンツェ周辺は「トスカーナ地方」と呼ばれ、起伏に富んだ豊かな、文字通り絵になる景色がしばらく続いていきます。でも、僕にとってフィレンツェ周辺の車窓は頂けない。絵になる素晴らしい景色の宝庫なのだけど、トンネルが多いのです。

しょっちゅう車窓がブラックアウトしてしまうので、落ち着いて眺めていられない。

また素晴らしい景色は写真に収めたい。だけどちょこちょこトンネルに遮られる。素晴らしい車窓がみえて「いい景色だ写真を撮ろう」とカメラを出して構えた瞬間トンネルイン。それの送り返しだったと思う。。。なんか小馬鹿にされているような気すらして結構ストレスなのです。。もちろん列車にそんなつもりはないのもわかっております。

f:id:fukarinka:20210613144036j:plain

 

さて列車は進みボローニャをすぎる頃にはすっかり景色も平坦になって、トンネルもほぼなくなりストレスなく車窓を楽しむことができるようになりました。見渡す限りの畑が車窓に広がり、同じイタリアでもずいぶんと景色が変わるものだと感心しきり。

f:id:fukarinka:20210613144102j:plain

やがて列車は高架を行くようになり、畑の作物に高架を行く列車の影が踊る様子は、今なら迷いなくiPhoneでビデオ撮影してただろうな、と思う映画のシーンに使われそうな印象的な景色だった。

 

気がつくと畑も過ぎ去り、周りにはモンサンミッシェル近くで見た水辺と同じ、潟特有のテーブル台地が多くなった。と思ってすぐ、列車は海に出ました。

そして進行方向の遠くには、海の上をうすく覆うように街の建物が見える。

 

なんだこれは!?

 

f:id:fukarinka:20210613144115j:plain

気がつくと1864年にできたイタリア本土とヴェネツィア本島を結ぶ鉄橋の上。写真と反対側の車窓には自動車道があり、車が並んで走っているのが見えた。

同じようなシチュエーションで言えばモン・サン・ミシェルを初めて観た時と同じレベルの衝撃。海の上に街があるんです。モン・サン・ミシェルだって城壁に囲まれていた。ここはそのまま街の建物。この時、僕は単純に「ウソでしょ?」と何度も自分に問い直していました。もちろん本当に嘘とは思っていない。でも海に浮かぶ、海を覆う街の姿はコミカルにすら見えて、その不思議さたるや過去訪れた街の中でも最上級のレベルでした。

間もなく列車はヴェネツィア・サンタ・ルチア駅に到着。ヴェネツィア初上陸。

これからヴェネツィアの街に繰り出します。


cmn.hatenablog.com

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ヴェローナ小史

f:id:fukarinka:20210530100423j:plainヴェローナの起源は有効な史料がのこっておらず、先史時代からここに集落があったことはこの土地の出土品から推定されているそうです。不確かながら歴史を辿れるのは紀元前550年ころだとか。。

 

紀元前550年頃 

 謎?の民族ユーガネイの集落がこの地に発生

 ユーガネイ(Euganei)はアドリア海からアルプスのあたりに住んでいた原始イタリア語民族。

■ローマ人の支配

紀元前300年頃

 ローマ人に征服され同盟関係を結ぶ

 ローマがハンニバル率いるカルタゴと戦った第2次ポエニ戦役などでローマの同盟都市として参戦しローマの信頼を得る

紀元前89年

 共和政ローマ支配下(植民地)となる

紀元前49年

 ムニキピウム(自治都市)となり、ローマ都市のインフラ整備される

 このころの街の中心はフォロ(Foro, Forum)=現在のエルベ広場

f:id:fukarinka:20210529182546j:plain 

ヴェローナ古代ローマの高速道路にあたるローマ街道のうち4本が交差するという交通の要衝でもあったことで都市として急速に発展します。またその反面、将来いろいろな争いに巻き込まれる運命もこの時に確定する。

 

紀元前30年頃

 円形闘技場完成

f:id:fukarinka:20210529182129j:plain

4世紀 

 313年ミラノ勅令発行後、緩やかにキリスト教の影響下に

 

■ゴート人の支配

476年

 西ローマ帝国皇帝がゴート族に追放され、ゴート人のイタリア王オドアケル誕生

489年

 東ゴートのテオドリックオドアケルヴェローナを舞台に戦い、勝利。

 テオドリックがそのままヴェローナに滞在し、街を修復再建、ヴェローナ東ゴート族の街になる

*この時期ヴェローナは事実上イタリアの首都となる

554年

 東ローマ帝国イタリア半島東ゴート王国から奪還する。

 

ゲルマン人の支配

569年

 ランゴバルド族の支配

 ゲルマン部族のランゴバルド族は古代ローマの時代からローマ領内への侵攻を繰り返してきました。彼らはこの時期、西方領土の安定に精一杯だった東ローマ帝国の隙をついて、北イタリアを中心にランゴバルド王国を建国したのでした。

774年

 フランク王シャルル1世(カール大帝シャルルマーニュ)によりランゴバルド族を追放、

ヴェローナフランク王国の領土となる。

 

1117年

 大地震(M6.9 ヴェローナ近郊震源)により、3万人が犠牲、街は大きな被害を受ける

 円形闘技場が3層の最外郭を失ったのはこのとき。

 

■イタリア人による自治

1136年

 自由都市(コミューン)となり少数有力貴族による統治(寡頭政)を敷く

13世紀

 パドバ、ヴィチェンツァトレント支配下に置きヴェローナの力は増していく。

ヴェローナの支配は有力な貴族スカジェリ家、ヴィスコンティ家、カッラーラ家と推移していきます。このときヴェローナ支配権をめぐった家同士、派閥同士の憎悪が増長、争いが耐えない暗黒時代に。それを背景とした物語が生まれ、この300年ほど後にシェイクスピアヴェローナを舞台にした戯曲「ロミオとジュリエット」を発表、これが時代を超えて世界駆け巡ることになる。

f:id:fukarinka:20210529181309j:plain

1405年

 ヴェネツィア共和国支配下(以降400年ヴェネツィア支配下で発展)に。

 とくにルネサンスヴェローナは商業、文化の中心として栄える。

17世紀

 ペストの流行

とくに1630年からのわずか2年間で人口の60%以上の33000人が死亡したといわれます。ペスト恐るべし。

 

■フランス人とオーストリア人の支配

1797年

 ナポレオンのイタリア遠征でヴェネツィア共和国が滅び、ヴェローナオーストリア支配下

1805年

 ナポレオンによるイタリア共和国ヴェローナも組み込まれる

1814年

 ナポレオンの失脚によりヴェローナオーストリア支配下

1822年

 ヴェローナ会議(ロシア、オーストリア、プロセイン、フランス、イギリス 五カ国同盟会議)が行われ、その余興として円形闘技場ロッシーニがオラトリオを演奏。

f:id:fukarinka:20210529182111j:plain


 

■イタリアの中のヴェローナ

1866年

 3度に及ぶイタリア独立戦争によってヴェネツィアと共に1861年に成立したイタリア王国の一部となる

 

20世紀

 ファシズムの台頭

 ヴェローナでも反ユダヤ法によるユダヤ人差別・虐待が始まる

 ヴェローナは反ファシストユダヤ人、連合軍関係者の投獄地にとなってしまう

 

イタリア王国は第2次世界大戦ではドイツ、日本と同盟を組み敗戦国になる。終戦後の1946年国民投票により王政を廃止して、イタリア共和国が誕生した。

 

2000年

ベローナ市街が世界遺産に登録される。

 

cmn.hatenablog.com

cmn.hatenablog.com

 

 

 

 

ストラトフォード・アポン・エイヴォン

f:id:fukarinka:20210605170627j:plain以前、イギリスの投稿をしたときに、ストラトフォード・アポン・エイヴォン(Stratford upon Avon)に少しだけ触れたのだけど、ヴェローナで改めてシェイクスピアに触れて、もうちょっと詳しくこの街に触れようと思いました。

シェイクスピアはこの街で1564年に生まれ、育ちます。18歳で結婚して、ロンドンに出て劇作家として大成功を収め活躍した後、1613年に49歳で引退し再びここストラトフォードに戻ってきて1616年52歳で亡くなります。

f:id:fukarinka:20210605103531j:plain

シェイクスピアが人生の最初と最後を過ごした街、それがストラトフォード・アポン・エイヴォン。 そして今ではストラトフォード=シェイクスピアというくらい、シェイクスピアだらけの街となっている。

 f:id:fukarinka:20210605103547j:plain

 

シェイクスピア記念泉水(The Shakespeare Memorial Fountain)

ストラトフォードの駅からエイヴォン川の方へ歩いていくと、歴史的街並みの起点に泉水があります。

1886年アメリカの出版業者で慈善家からシェイクスピアの偉業とヴィクトリア女王の記念碑として送られた泉水でシェイクスピアの仕事を称える初期の記念碑。このことがストラトフォードがシェイクスピアの街への進化するきっかけになったともいわれます。

f:id:fukarinka:20210605103939j:plain

 

シェイクスピアの生家(Shakespeare's Birthplace)

ヘンリー通りに面した場所に、シェイクスピアの生家はあります。エリザベス朝時代の建築様式で現在に至るまで保存のために何度も修復が行われ、シェイクスピアが過ごした時期の状態が保たれています。羊毛商を営む家庭は、いわゆる中流家庭だったと言います。

f:id:fukarinka:20210605103604j:plain

 これが中流とはなんと豊かな。。現在記念館として、シェイクスピアが過ごしたままを再現したり、いろいろな資料の展示がみられます。

f:id:fukarinka:20210605103844j:plain

 

 ヘンリー通りはとにかく賑やか。

f:id:fukarinka:20210605104028j:plain

 

そのまま歩いてエイヴォン川につくとバンクロフト庭園(Bancroft gardens)が広がっています。こじんまりした庭園ではあるけれど、エイヴォン川が流れ、草花が手入れされたとても綺麗な庭園。奥には王立シェイクスピアシアターがある。

さらにその先に少し見えるのが、シェイクスピアのお墓のある聖トリニティ教会(Holy Trinity Church)。

f:id:fukarinka:20210605103912j:plain

 

聖トリニティ教会( Holytrinity Church)

シェイクスピアの墓と記念碑がある教会です。

シェイクスピアストラトフォードで生まれてから、ここで洗礼を受け、現在は妻アンとともにここに眠っています。ここに埋葬されているのはシェイクスピアの偉業によるものではなく、納税額の高さによってだとか。

f:id:fukarinka:20210605104107j:plain

 

 

バンクロフト庭園にあるシェイクスピアの像(今はないのかも)

シェイクスピアはたくさんの作品を残しました。その中の四大悲劇といわれるのが、

ハムレット(1601)」「オセロ(1604)」「リヤ王(1605)」「マクベス(1606)」。その4作品の主人公に囲まれた記念碑がこの像。

f:id:fukarinka:20210605103321j:plain

僕が最初に読んだシェイクスピアの作品はおそらく「ジュリアス・シーザー」。なぜかというと当時僕はジュリアス・シーザー(=ユリウス・カエサル)について、とにかくいろいろ知りたかったから。

でも、「ジュリアス・シーザー」はカエサルが暗殺された瞬間から始まる物語。カエサルのことはほどんどわからなかった。

ストラトフォードはとても綺麗ないい街なのだけど、どうもシェイクスピア色が強すぎて僕には消化不良気味に終わったのでした。

その後、イタリアのヴェローナで「ロミオとジュリエット」の史跡(?)に触れ、 今住んでいる場所はシェイクスピアがちょっとだけ身近に感じられる場所。気がつくとシェイクスピアは意外と身近な存在でした。

 

 

cmn.hatenablog.com

cmn.hatenablog.com

 


cmn.hatenablog.com

cmn.hatenablog.com