cafe mare nostrum

旅行の記憶と何気ない日常を

2021-01-01から1年間の記事一覧

ヴェネツィア 3 サン・マルコ広場

サン・マルコ広場(Piazza San Marco) ヴェネツィアでPiazza(広場)と呼ばれるのはサン・マルコ広場だけ。 正面にヴェネツィアの象徴「有翼のライオン」と「聖テオドーロ」の二つの円柱(Colonne di San Marco e San Todaro )が立ち、ヴェネツィアを訪れた人を…

ヴェネツィア 2 海の玄関口(サンマルコ広場)

かつてのヴェネツィア共和国の玄関口はサンマルコ広場でした。ヴェネツィアを訪れる外国人は、海から必ずここに上陸したそうです。 ローマ人の物語の著者塩野七生さん曰く「ヴェネツィアを訪れるなら船に限る」。海から眺めるヴェネツィアと徐々にせまるサン…

ヴェネツィア 1 大運河

大運河(カナル・グランデ/Canal Grande)は大小さまざまな船と優雅なゴンドラが行き交ういわば「メインストリート」。サンタ・ルチア駅からサンマルコ広場まで全長約4km、逆S字形にヴェネツィア本島をうねりゆく。 僕はヴェネツィアに着いて、まずサンタ・ル…

ヴェネツィア 目次

”海よ!ヴェネツィアは汝と結婚せり。永遠にヴェネツィアとともにあらんことを” こう唱えて市長が黄金の指輪を海に投げる。毎年夏のキリスト昇天祭のあとに行われる「センサの祭り(Festa della Sensa)」でのヴェネツィアの「結婚の儀」。 「水の都」「アドリ…

欧州列車の小話 ヴェネツィアへの道

ある年に僕は、フィレンツェからいわゆるイタリアの新幹線「ユーロスター・イタリア」に乗りヴェネツィアを目指しました。 花の都から水の都へ。ルネサンスの街からこの世にふたつとない海に浮かぶ街へ。 この列車、イタリアの有名な車デザイナー、ジウジア…

ヴェローナ小史

ヴェローナの起源は有効な史料がのこっておらず、先史時代からここに集落があったことはこの土地の出土品から推定されているそうです。不確かながら歴史を辿れるのは紀元前550年ころだとか。。 紀元前550年頃 謎?の民族ユーガネイの集落がこの地に発生 ユー…

ストラトフォード・アポン・エイヴォン

以前、イギリスの投稿をしたときに、ストラトフォード・アポン・エイヴォン(Stratford upon Avon)に少しだけ触れたのだけど、ヴェローナで改めてシェイクスピアに触れて、もうちょっと詳しくこの街に触れようと思いました。 シェイクスピアはこの街で1564年…

ロミオとジュリエット小話

ヴェローナ⇨シェイクスピア⇨僕の住む街。 演劇とバラの花が有名というか、盛んというか。そういうところです。 最寄駅を出ると、地面にこんなのが埋まっています。 シェイクスピアの「ロミオとジュリエット」のジュリエットがバルコニーで囁く有名なセリフで…

ヴェローナ ジュリエッタの家

カエサル=シーザー(Caesar)、ロメオ=ロミオ(Romeo)、ジュリエッタ=ジュリエット(Juliet)。 イタリア語、ラテン語が起源のもので、英語になって日本に入ってくるものが今までもいろいろありますが、シェイクスピアによる「ロミオとジュリエット」はイタリ…

ヴェローナ 街を一望する

円形闘技場の脇、わずかに残る三層部の横から小粋な小径、マッツィーニ通り(Via Mazzini)に入ります。闘技場のあるブラ広場とエルベ広場を結ぶ落ち着いた佇まいいい小径です。 街の景色は2000年前の円形闘技場の姿に負けないくらい、周囲の家並みがまた良い…

ヴェローナ 古代ローマ円形闘技場

円形闘技場 (Arena di Verona) ヴェローナがローマ都市として栄えた紀元1世紀前半に作られた、25000人収容の円形闘技場。完成時期ははっきりした記録がないようだけど、ローマのコロッセオより数十年はやく完成したと言われています。この頃からローマ帝…

ヴェローナ 目次

ヴェネツィアとミラノのちょうど中間に位置するこの街は、シェイクスピアの「ロミオとジュリエット」の舞台として、また夏に古代ローマの円形闘技場で行われる野外オペラで知られ、その佇まいから”真珠のよう”と称えられています。 僕はミラノへ行く列車の中…

欧州列車の小話 車内オペラ

ここで綴るのはスイスのツェルマットからミラノへ列車で向かった時の貴重な思い出です。 *失意のツェルマット ミラノへの出発の日、ツェルマットは朝から雲が立ちこめ、最後にマッターホルンの姿を見ることはできませんでした。結局ツェルマット3日間の滞…

ミラノ小話 メモの価値

「メモ書き」が一枚1億円の価値をもち、「メモ書き」の展覧会が開かれると大勢の人がそれを見るために集まってくる。絵でも彫刻でもない、言ってみれば「ただのメモ」に大勢の人々が引き寄せられるのです。そう「ただのメモ」はレオナルド・ダ・ヴィンチが…

ミラノ小史

簡単に、ミラノの歴史です。 *ローマ以前 紀元前7世紀 ガリア人集落が誕生 *共和政ローマ期 紀元前222年 ガリア人集落をローマ人が植民地化。ローマ都市「メディオラヌム(Mediolanum)」誕生。ローマ人はすでにこの時、ミラノ(メディオラヌム)をガリアへ…

ミラノとキリスト教

僕は無信仰、というか八百万の神様と生きていると思っているので、宗教に対しては常にフラットな立場でいます。それはこれからも変わらないでしょう。そんな中でも僕にとってのキリスト教は、ルネサンスはじめたくさんの時期と地域で才能ある芸術家たちを刺…

ミラノ小話 遠くて遠い最後の晩餐

レオナルド・ダ・ヴィンチ作「最後の晩餐」を見るまでに、僕はミラノに3度、サンタ・マリア・デレ・グラツィエ教会には4度足を運びました。でも実際にこの絵としっかり対面できたのはたったの1度だけ。そのせいもあってか、僕はこの絵に対して、その世間一…

ミラノ小話  憩いのドゥオモ広場

ドゥオモ広場の写真を見てネオンギラギラの一角のあるこの広場がどうにも好きになれなかった。なんかヘンテコな形をしたゴシックの王道とは違う大聖堂もどうなのか?まだミラノを訪れる前、これが僕のドゥオモと広場に対する印象でした。 でも、実際にミラノ…

ミラノ ドゥオモ瞬景

時々刻々変化していくミラノのドゥオモの景色を 朝のドゥオモ 大聖堂が朝日をバックにするシルエットはとても神々しい。 ヴィットリオ・エマヌエレ2世の像、その先にミラノを守ってきた聖母マリアの黄金の像 ドゥオモの尖塔の上にはたくさんの聖人が立ち、ミ…

ミラノとレオナルド

ミラノとレオナルド・ダ・ビンチ Milano e Leonardo Da Vinc レオナルドとミラノの関わりは1471年、レオナルドが19歳のときから始まります。その年、ルドヴィコ・イル・モーロがフィレンツェ共和国を訪れ、フィレンツェでは歓迎の宴が催されました。それを取…

ミラノ 最後の晩餐(サンタ・マリア・デッレグラツィエ教会)

最後の晩餐(L'Ultima Cena)はキリスト教の中でもとても重要な出来事として、古くからたくさんの「絵」がイコンや芸術作品として残されています。レオナルド以外にも、たくさんの著名な画家たちがこの「キリスト処刑前夜に弟子たちと供した夕食」の場面を描い…

ミラノ サンタ・マリア・デッレ・グラツィエ教会

Santa Maria delle Grazie ミラノ公に就任したガレアッツォ・スフォルツァがスフォルツァ家の菩提所としてドメニコ派の修道院と教会の建設を命じます。当時ミラノで活躍していた建築家ソラーリに設計を託し、ゴシック様式の教会として1466年に建設が始まり、…

ミラノ スフォルツェスコ城

ミラノの長い変化の歴史で何度も破壊と撤去の危機に遭いながら、奇跡的にその姿を現在に伝えることができた建物で、非宗教建築の中でもっとも貴重なものがこのスフォルツェスコ城です。「混沌のミラノ」その地勢ゆえに歴史に翻弄されたミラノにあって、激動…

ミラノのドゥオモ

Duomo di Milano / ミラノのドゥオモ 建設時期:1386〜1906 *「ドゥオモ」って? フランスで「ノートルダム寺院(Notre-dame)」という同じ名前の聖堂があちこちにあるように、イタリアでは「ドゥオモ(Duomo)」という聖堂を各地で見かけます。「ドゥオモ」と…

ミラノ 街歩き

「一体ミラノのような街を深く知ることができるのか?できるかもしれない。できないかもしれない。。。」 僕がミラノで買った現地ガイドの冒頭に書かれた言葉です。 ミラノは幾度も支配者が変わりそのたびに街は作り替えられてきました。そのためその生い立…

ミラノ 目次

ここミラノは北イタリア最大の都市であり、イタリア経済の首都。 また、ファッションではパリと世界を二分する「ファッションの都」、さらにオペラの殿堂「スカラ座」のある街、サッカーセリエAの名門ACミランとインテル・ミラノの本拠地。 様々な顔を持つミ…

ミラノ風景1

ilano Gallery 1 アーケードを抜けるとそこにはイタリア最大で最も美しいと言われる大聖堂が。。。 たくさんの尖塔の上には聖人が立ち、ミラノの街を見守っています。 ゴシック様式なんだけど、ふたつとないこの特徴のあるファサードは一体、なぜ? 僕にとっ…

イタリア 目次

かつて、約1000年にわたって世界の中心だったイタリア半島。世界の中心となり得たのは言うまでもなく、地中海をそっくり包む大帝国を作り上げたローマ人の力です。そしてローマが衰退したその後もイタリア半島は宗教(カトリック)、そして芸術、ファッショ…

イタリア小話 イタリアへの道

当時イタリアは治安の悪い国として知られていたので、いつも緊張感とともにイタリアへ入国していました。入国方法はその時々でいろいろ。空路で直接イタリアに入ったり、ドイツから、スイスから、フランスから鉄道だったり、車だったり。 *スパイが如く 初…

シャモニ5 魔の山登頂史

登山の対象としてのモンブラン(Mont-blanc 4807m)は、エギュイーユ・デュ・ミディを起点に標高差1000mほどの登山行で登頂可能であり、そのスジでは比較的難易度の高くない山とされていると言います。そんな手軽な「ヨーロッパ最高峰」に年間2万人もの登山者…